■那須町と近現代の人々 vol.27
3月号は、黒田原の礎を築いた荻昌吉を紹介します。
昌吉は、安政元年に熊本藩士荻昌国の子として生まれました。ちなみに昌吉の孫は映画評論家の荻昌弘です。昌吉は、明治7年から宮内省に出仕したとされ、同13年から侍従、同21年から狩猟官として仕えました。
昌吉と那須の関係は、明治14年の巡幸の際に芦野を訪れたことから始まります。昌吉は、同16年頃に伊王野の山林の払下げを企てますが失敗し、同22年に横岡・寄居の官有林(通称東山)の貸下げを元田永孚(もとだながざね)・米田虎雄らと行い、開墾・牧畜を計画しました。それが後に大きな火種となります。
明治20年に現在の東北本線(黒磯―郡山間)が開通すると、材木輸送等の利便を考え、昌吉は芦野町民らと黒田原への駅誘致を行い、同24年に黒田原駅が開業しました。その後昌吉は宮内省を退職し、同27年に木山田謙三・大塩清嘯(おおしおせいしょう)らと黒田原温泉株式会社を設立し、大丸・旭温泉から黒田原まで木管で温泉を通しました(現在の普門院に荻の別荘、その脇に温泉場があったという)。付近には若松屋・松野屋などの旅館が立ち並びました。昌吉は、これを契機とし、同29年に東宮(後の大正天皇)の御用邸設置を企てます。9万坪の敷地に御用邸・馬場などを置き、余笹川を庭で囲む計画が当時の新聞で報道されました。
しかしこの頃、貸下げを受けていた横岡・寄居の官有林で問題が起きます。貸下げ後、昌吉が官有地の無許可売買、貸下げ地以外での立木伐採を行うなど違反行為をしていたことが発覚し、芦野町民ら約50名は抗議するため、東京・農商務省などに押し掛け、貸下げ後の払下げ中止を求めました。
この問題後、昌吉は表舞台から姿を消し、黒田原温泉もその後廃業しました。しかし昌吉は駅の誘致や黒田原の開発を行うなど、現在の黒田原の在り方を規定したともいえ、山田家や藤田家とともに黒田原の歴史の中で語られてほしいと思います。
(肖像画は、皇居三の丸尚蔵館収蔵)
※本紙参照
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