■那須町と近現代の人々 vol.32
8月号は、伊王野村出身で初代黒磯町長を務めた山口兵吉を紹介します。
山口兵吉は、明治2年に伊王野の河島文彌(第2代伊王野郵便局長。正福寺に顕彰碑がある)の三男として誕生しました。兵吉は明治法律学校(現明治大学)を卒業後、明治28年に黒磯の材木商・山口利三郎の婿養子となり、以後政治家として東那須野村助役などを歴任しました。
兵吉が商売をしていた黒磯地区は、明治時代半ば以降国道の開通や東北本線の開通に伴う人口増加・経済規模の拡大により、東那須野村の中心地である東小屋地区よりも市街地が発展したことから、黒磯地区の分離独立問題が浮上していました。そのため、明治45年に東那須野村から分離独立して黒磯町が誕生すると兵吉が町議の互選により初代黒磯町長になりました。
兵吉は、町長在任期間中に「黒磯町町是(大正5年)」を制定し「豊年踊り」を改良して町民の風紀改善・娯楽創出を図りました。豊年踊りは現在、黒磯の盆踊りとして100年以上の歴史を紡ぎ親しまれています。また大正14年には、黒磯小学校に併設していた裁縫補修女学校を分離して、黒磯町立実践女学校(現黒磯高校)を創設し、県北地域の女子教育に力を入れるなど、大正デモクラシーの世相を反映した町政運営を実施しました。ほかにも黒磯町の人口増加に伴う水不足解消のため、上水道敷設計画を立案しましたが、昭和2年12月に倒れ、翌年1月に町長在職のまま亡くなりました。
兵吉の町政運営は、地味で手堅く、町の基礎作りを主としましたが未来を見据えていました。兵吉はユーモアもあったようで豊年踊りでは先頭に立って踊り、祭りを楽しんでいたといいます。黒磯町青年団が彼の死後に作成した哀悼の詩には、「この町のおおきな誇りであった名町長」と、いかに黒磯町民に慕われた人物だったかがわかります。
町の将来ビジョンを示しながらも堅実な町政運営を行った兵吉は、人口減少社会の目指すべきリーダー像の1つなのかも知れません。
(肖像画は『黒磯市誌』より、旧黒磯町役場は『大那須写真帖』より転載)
※本紙参照
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