今年四月、一九四一年に出版された「布哇沖縄県人発展史」が、和歌山市民図書館で保管されていることが分ったとの報道がありました。その内容は、沖縄からハワイに渡った一世らがサトウキビ農場で支え合い、過酷な労働に耐えながらも道を切り開いてきた歴史や二世らが多方面で活躍し始めた様子などが記されている貴重なものであることが分かりました。
当時の海外集団移民の背景には、一八九九年(明治三二)から一九〇三年(明治三六)にかけ個人の土地所有権が確立し地租納税が個人に課され、土地を売買して移民費用にあてることができるようになったことや、また一八九八年(明治三一)に沖縄の一般県民に徴兵令が施行されたことにより、徴兵回避のために家の跡継ぎなどの男子を移民させる例も多かったと言われています。
一八九九年十二月五日、沖縄から初めて海外集団移民が、當山久三の斡旋により那覇港から出発し、横浜港でチャイナ号に乗船してハワイへ向かいました。翌一九〇〇年(明治三三)一月八日、ホノルル港に到着、オアフ島のサトウキビ耕地で二十六人が契約移民として働き始めました。
その二十六人の中には、字呉屋出身の呉屋次良(二十五才)が含まれていたという記録※1が残っており、当時海外へ移民で出ることはその前例がなく、大変な決意を要したと考えられます。
移民たちは、現地の言葉で「ルナ」と呼ばれる監督が厳しく監視する中で重労働に明け暮れました。やがてプランテーション労働で得た資金をもとに、養豚業に転身、または市街地でレストラン経営などのビジネスを始める者も出てきました。
ハワイには、日系移民の出身地ごとに県人会が長きにわたり組織され、今でも活発に活動している県人会も多くあります。その中で、沖縄出身者の団体は、県人会ではなくハワイ沖縄連合会という名称を使っています。もともと沖縄から移住してきた人達は、出身地の市町村単位のクラブを作り、同胞が協力し合う組織を作っていましたが、それらをまとめて一九五一年に組織された団体が沖縄連合会で、開設当時は一世の出身地である沖縄の戦後の困窮を援助する役割も大いに重要でした。
現在は沖縄県との交流事業や、ウチナーンチュとしての文化の継承に力を入れており、毎年九月初めのレイバーデイの週末に、「オキナワフェスティバル」というウチナーンチュの一大イベントをワイキキのカピオラニ公園で開催しています。
二〇二五年には、沖縄から最初の移民がハワイに渡ってから百二十五年を迎えるにあたり、一世の苦難の歴史を継承し沖縄の文化を発信していく様々な記念イベントを開催していくとのことです。
※1 西原町史 第六巻 資料編五「西原の移民記録」
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