[日野歴史探訪]
私たちの住む日野町には、52の大字があり、それぞれの地域が豊かな自然と歴史文化で彩られています。
温故知新では、町内各大字の歴史と代表的な文化財をシリーズで紹介していきます。
◆大字安部居(あべい)
大字安部居(あべい)は、西桜谷地区の東部に位置し、字内を佐久良川と野川が流れています。
集落は、佐久良川の南左岸、字域の西部の高台に位置しています。
◆地名の由来
安部居という地名は、丘陵に挟まれた土地を意味する鞍部(あんぶ)に由来すると考えられています(『滋賀県の地名』)。
中世には、佐久良川中流域一帯に比定されている奥津保(おくつのほ)(奥野保)という荘園の一部とされ(『東櫻谷志』)、かつては奥津保から徳珍保(とくちんのほ)(現東近江(ひがしおうみ)市八日市(ようかいち)に抜ける道があったとされています。
江戸時代の元和(げんな)三(一六一七)年から文久(ぶんきゅう)二(一八六二)年までは、彦根(ひこね)藩井伊(いい)氏の領地となっています。
◆中世寺院の存在を示す鰐口(わにぐち)
鰐口(わにぐち)とは、寺社の正面の軒下に掛けて、神仏への供養(くよう)のために参詣者(さんけいしゃ)が緒(ひも)を振って打ち鳴らすものです。
安部居区有として大切に守られてきた鰐口は、江戸時代に丸山の麓(ふもと)、字スゲノ谷の水田から発見されました。
銅で鋳造(ちゅうぞう)された鰐口は、外区(銘が入る外側部分)には、「天徳寺大願主沙弥成佛」、「元亨元年辛/酉九月七日」と銘が刻まれていることから、制作年代は鎌倉(かまくら)時代後期であることがわかります(『近江日野の歴史』第5巻文化財編)。
天徳寺(てんとくじ)は、かつて賀川(かがわ)神社(安部居)の北方にあったとされる寺院です。本品は、この地にかつてあったという中世寺院の存在を示唆(しさ)する貴重な作品であり、県内に伝来する鰐口の中では比較的古く、造形が秀でていることから、平成十九(二〇〇七)年六月一日に県指定有形文化財に指定となりました。
◆賀川神社と立居(たちい)神社
大字安部居には、氏神である立居神社(たちいじんじゃ)と、用水を共同利用してきた郷の集りである安部居・奥之池(おくのいけ)・佐久良(さくら)・鳥居平(とりいひら)を氏子圏とする賀川神社があります。
四月に行われる賀川神社の春祭りでは、両社の間を往還する御渡りが特徴です。
この春祭りでは、安部居と奥之池が中心的な役割を果たします。祭当日、賀川神社で神事が終ると、バンバと呼ばれる広場に入り、佐久良川に架けられた細い板橋を安部居の御幣(ごへい)から順に渡っていきます。上下に揺れる細い板橋を長く重い御幣を一人で立てて渡るのは至難(しなん)の業で、御幣を倒してしまうことも多々あるといいます。すぐ川下に架かる常永橋から多くの人が見守る中行われる、賑やかなお祭りです。
問い合わせ先:近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」
【電話】0748-52-0008
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