[日野歴史探訪]
私たちの住む日野町には、52の大字があり、それぞれの地域が豊かな自然と歴史文化で彩られています。
温故知新では、町内各大字の歴史と代表的な文化財をシリーズで紹介していきます。
◆大字上駒月(かみこまづき)
南比都佐地区の南端に位置する大字上駒月は、日野川の支流である砂川の最上流部の駒月谷に位置しています。
元々は下駒月とともに駒月または狛月(こまづき)(『蒲生文書』)という一つの村でしたが、分村するかたちで上下に分かれたといいます。村の成立は、中世までさかのぼり、伊勢神宮外宮の神領地を経て、江戸時代に仁正寺(にしょうじ)(西大路)藩市橋(いちはし)領となり幕末まで領主の変遷はありませんでした。
◆産業としての筵(むしろ)織り
上駒月の筵織りは、江戸時代の延宝(えんぽう)年間(1673~1681)ごろより始まったとされています。
明治中期になると、生産農家が85戸で、年平均生産量が1戸あたり約600枚でしたが、やがて足踏み式一人織り機や製縄機が導入されると飛躍的に生産量が向上していきます。
その後昭和14(1939)年に、産業組合の筵倉庫、同16年には加工品などの備蓄倉庫を整備するなど、1戸あたりの年間平均生産量2000枚に対応するための施設が建設されました。
かつては女性が筵織りを担っており、作業は午前中のみでしたが、縄ないなど夜なべもし、家事や農作業なども行うという生活を送っていました。多忙な日々の中で、男性が家事などを担い、女性が休暇をとる「センダク」という風習も生まれました。
村を支える産業であった筵織りは昭和30年代に廃業となるまで続けられました(『ふるさと上駒月の歴史』)。
◆旧調和(ちょうわ)学校(現大字会議所)
調和学校は、明治6(1873)年6月に、佛號寺(ぶつごうじ)(上駒月)の茶室を仮の教室にしたのが始まりで、まもなく個人宅に移り、翌7年に正式に開校しました。独立校舎が必要であったため、明治14年9月に調和学校として新校舎の落成式が行われています(『大字上駒月文書』)。
その後、明治19年に甲賀郡尋常(じんじょう)科か大野小学校上駒月分教場を経て、同21年に簡易科上駒月小学校、同34年に南比都佐村内の学校が合併し開校した比都佐尋常高等小学校の上駒月分教場となり、昭和9(1934)年に廃校となりました(『近江日野の歴史』第4巻)。
学校としては廃校となりましたが、その建物は昭和13年に改築され、古材を再利用しつつ大字の会議所となりました。
この建物は、木造平屋建て、寄棟造(よせむねづくり)の桟さん瓦葺(かわらぶき)で、正面の車寄せは唐から破は風ふとなっています。部屋は8畳・12畳の2室が並び合わせて計4室で、明治14年7月と墨書された棟札(むなふだ)が釘打ちされています。玄関の鬼瓦に「調和」の文字がみえ、かつての学舎の趣を今に伝えています。
学校という役割を終えた後も、地区の人々に大切に守り伝えられてきた旧調和学校の建物は、新たな役割を得て、後世の人々の集う場所となっています。
問い合わせ先:近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」
【電話】0748-52-0008
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