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歴史は未来の羅針盤 温故知新

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滋賀県日野町

[日野歴史探訪]
私たちの住む日野町には、52の大字があり、それぞれの地域が豊かな自然と歴史文化で彩られています。
温故知新では、町内各大字の歴史と代表的な文化財をシリーズで紹介していきます。

◆大字仁本木(にほんぎ)
大字仁本木は、北は大字奥師(おくし)、東は大字音羽(おとわ)、西は大字西大路と接しており、字域は南北に細長い形状をしています。中央を日野川が流れ、両岸には10メートル前後の河岸段丘(かがんだんきゅう)が形成されています。北側の段丘に沿うように集落がつくられ、かつて日野商人が伊勢への往来に利用した山越えの道が通っています。
村名の由来として一説には、当地が古くから綿向山山頂にある奥宮を遥よう拝はいする地にあたり、鳥居となる2本の木があったためとされています(『蒲生旧趾考(がもうきゅうしこう)』)。また、里宮(さとみや)である馬見岡綿向(うまみおかわたむき)神社(村井)の氏子圏(うじこけん)の東端であることから、その鳥居は里宮の神域を示すものともいわれています(『滋賀県の地名』)。
江戸時代初めは幕府領でしたが、延宝(えんぽう)8(1680)年から甲斐甲府(かいこうふ)領に、正徳(しょうとく)2(1712)年から水口藩(みなくちはん)領となり、明治時代を迎えています。

◆徳本名号碑(とくほんみょうごうひ)
徳本名号碑とは江戸時代後期にこの辺りで念仏修行を説いた僧である徳本にゆかりがあるもので、「南無阿弥陀仏」の六字名号を刻んだ特徴的な石碑(せきひ)です。日野町域を中心に滋賀県の湖東から湖南地域にかけて見られます。徳本の没後各地に名号碑が建てられました。
日野町内には、西大路地区をはじめ十数基の徳本名号碑が確認されていますが、そのうち仁本木の名号碑は、天保(てんぽう)8(1837)年の年紀があり、かつては仁本木と音羽の境に位置していましたが、昭和45年ごろ、道路の改修工事によって日野川からの井路の分岐点付近の通称「バンドウサン」と呼ばれる現在の地に移されました。

◆仁本木の徳本講(とくほんこう)
徳本の念仏修行の教えは、徳本と地域の人々の結びつきを示すものとして多く残されていますが、徳本講(念仏講)もそのひとつです。
仁本木では、「ミョウゴンサン」と呼ばれる行事が、9月10日ごろに行われています。
これは名号碑の前で行われるもので、講の準備は、仁本木の老人会の上・下組の2つの組が隔年で当番に当たります。夕刻になると提灯(ちょうちん)に火が灯され、人々がお供えを持ち寄り、午後8時ごろ、常福寺(じょうふくじ)(仁本木)の住職が名号を唱えて、講を勤めます。この「ミョウゴンサン」は、8月9日の「千日(せんにち)さん」、23日の「地蔵盆」などと並んでかつては非常に楽しみにされた日であったといわれています。
なお、常福寺には徳本の肖像画と名号の掛軸が所蔵されており、葬式や一周忌などに2幅の掛軸をかけて徳本講に念仏をあげてもらう習わしが伝えられています。
徳本が日野の大字平子の澄禅寺(ちょうぜんじ)(当時は澄禅庵)に滞在したのは、文化(ぶんか)2(1805)年〔一説には、享和(きょうわ)2(1803)年〕のこととされ、ここで近在の人々に念仏を広めたのはわずか1年ばかりとされているにも関わらず、その教えは村人の心をひき付けて、信仰と行事として息づいています。

問い合わせ先:近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」
【電話】0748-52-0008

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