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栗東町誕生前史~明治の大合併のころ~

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滋賀県栗東市

今から70年前の昭和29年(1954)、栗太郡の東側にあった治田・金勝・葉山・大宝の4村が合併して、栗東町が誕生しました(昭和の大合併)。では、のちに栗東町となる治田・金勝・葉山・大宝の4村は、いつごろ生まれたのでしょうか。それは、今から135年前の明治22年(1889)にさかのぼります(明治の大合併)。
明治時代の初めごろは、江戸時代と同じように、現在の大字(栗東市○○の○○の範囲)が1つの町や村となっていました。これらを政府の示した方針に基づいて整理したのが明治の大合併で、滋賀県内でも1675町村が6町189村に整理されています。治田・金勝・葉山・大宝の4つの村もこのときに生まれたのです。
明治の大合併による新たな町村の名称については、郷・庄などの歴史的地名や山川などの自然に由来する名称の他、名所旧跡などから採用するように滋賀県から指示があり、後に栗東町となる4つの村も、それらにちなんだ名称となっています。

■治田村
岡・目川・坊袋・川辺・上鈎・小柿・下戸山・安養寺・下鈎・中沢に、渋川(草津市)を加えた11村が合併して誕生。名称は、古代・中世の庄園(治田庄)に由来しています。
県が当初に示した案によれば、安養寺以外の10村で合併する予定で、安養寺は葉山村に編入されることとなっていました。安養寺も異存はなかったものの、坊袋・川辺・上鈎・小柿・下戸山・中沢の各村より、水利の関係で安養寺が加入することを希望する意見が出て、県も原案を修正することとなりました。この他、下鈎では、葉山川によって他の集落と分断されることを懸念し、大宝村への編入を希望する意見もありましたが、川辺の灰塚池から用水を引いている下鈎を大宝村へ組み込むと、灰塚池の利用をめぐって相論を引き起こす可能性があるとの意見が通り、下鈎は治田村に加わりました。水田の灌漑に関わる村同士の結びつきは、明治の大合併に大きな影響を及ぼしたのです。
下戸山については、志津村(草津市)に合併すべきであるとの意見もありました。しかし、岡・目川・川辺が用水を下戸山より引いているほか、これらの村々が下戸山に鎮座する小槻大社の氏子であることを理由に、治田村に編入されることを希望し、その希望は叶えられています。
なお、渋川は、のちの昭和31年(1956)に栗東町から分離し、草津市に編入されています。

■金勝村
御園・上砥山・荒張・井上・東坂・観音寺の6村が合併して誕生。名称は、金勝寺(荒張)や庄園(金勝庄)に由来しています。
この6村による合併は、関係者の間でも全く異論なく、極めてスムーズに進んだと記録されています。

■葉山村
伊勢落・林・六地蔵・小野・手原・大橋・出庭・辻・高野の9村が合併して誕生。名称は、六地蔵に源を発する葉山川に由来しています。
当初、先にも挙げた安養寺の他、蜂屋も加えるほうが良いという意見もありましたが、県は、蜂屋を加えた場合、葉山村の区域が大きくなりすぎるということの他、蜂屋は綣と水利の関係上離れがたい事情があるとして、これを退けています。

■大宝村
蜂屋・野尻・綣・苅原・笠川・北中小路・小平井・霊仙寺・十里の9村が合併して誕生。名称は、大宝神社(綣)に由来しています。
県が当初に示した案では、小平井は平井(草津市)とともに、笠縫村(草津市)に入ることとなっていました。これに対し、小平井・平井は、水利での関係が深い苅原・笠川と一体で新たな村に入ることを望み、笠川・苅原を笠縫村に入れるか、小平井・平井を大宝村に入れて欲しい旨を要望しますが、結局、小平井は大宝村に平井は笠縫村に入ることとなりました。
また、阿・伊勢・二町(以上守山市)の3村は、物部村(守山市)に入るという県の案に対し、大宝神社の氏子であることや水利の関係から、大宝村に入ることを希望します。しかし、その3村が大宝村に入った場合、物部村の規模が小さくなるなどの理由から、この希望は叶いませんでした。

このようにして誕生した治田・金勝・葉山・大宝の4村は、昭和の大合併により、昭和29年(1954)に栗東町となります。この合併に至るまでの間にも、大正9年(1920)には、4村の村長の連名により新たな駅の設置を請願し、大正11年(1922)に現在のJR草津線手原駅が開業したほか、昭和23年(1948)には4村の組合立として栗東中学校を開校させる等、結びつきを強めていました。
その後の栗東町は、昭和38年(1963)の名神高速道路栗東インターチェンジの設置を大きな画期として、戦後日本の成長を象徴するような急激な発展を遂げていきました。そして、平成13年(2001)10月1日には、全国でも珍しい単独での市制施行を成し遂げています。
昭和44年(1969)11月のJRA栗東トレーニング・センターの開場は、栗東のまちづくりにも大きな影響を与えました。開場時に3000人以上の関係者が移り住んだトレーニング・センターの人口は、昭和50年代前半には4000人を越え、就学児童が約3倍に急増した金勝小学校では、増築などの対応がとられています。当時、小学校に勤務していた佐々木さんは「毎日のように転入生が来て、一時期、生徒は千人近くにもなりました。当時土曜日午前に地域の子どもたちの居場所となる“金鱗(きんりん)クラブ”の活動も盛んでした。戸惑いや苦労もありましたが、賑やかで金勝が一番活気づいていた時代でした」と振り返ります。

今号の「りっとう再発見」に関連記事を掲載しています。あわせてご覧ください。

問合せ:栗東歴史民俗博物館
【電話】554-2733【FAX】554-2755

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