【忠魂碑と忠霊塔】
今回は町内の忠魂碑と忠霊塔について調べてみました。
西学区(西甲良村)には、西小学校の運動場北東の道を挟んだ築山に忠魂碑があります。また東学区(東甲良村)には「おだいどこ野幸」近くの正楽寺地先に忠霊塔が建てられています。忠魂碑とは戦争で亡くなった方の慰霊碑の事です。日露戦争前には記念碑、招魂碑と呼ばれたものが建てられましたが、忠魂碑として日本全国に普及していくのは日露戦争以降のことです。大正・昭和天皇の即位記念事業として、小学校の一角に建立したものが多いそうです。
どちらの石碑も戦死者の追悼にとどまらず、これを通じて国家への忠誠心を養成しようという軍部や国家指導者の意図によって建設され、戦死を美化し銃後協力を国民に強制するための象徴にもなりました。敗戦後は、占領軍(GHQ)の命令により学校敷地からの撤去あるいは埋められたりしました。
西甲良村の忠魂碑は、明治45年3月に旧西甲良小学校前(若松歯科北)に建てられました。写真の忠魂碑は、学校が現在の校舎敷地に移転することに伴い昭和10年11月に移設されたものです。
西南の役、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争で戦没された213名を慰霊、顕彰するため西甲良村が建立しています。裏面には英霊の氏名が刻まれていましたが終戦後消されています。
東甲良村の忠魂碑は、大正12年3月に旧東甲良小学校敷地内に在郷軍人会東甲良村分会によって忠魂碑が建てられましたが、昭和20年敗戦によって、学校敷地から撤去されました。
しかし、1950年代(昭和25年)ごろから戦死者の追悼と平和を願う思いが高まり全国的に復元されてきました。東甲良村でも昭和25年に忠霊塔として村で再建されました。用地は山林であったため東甲良村青年団が整地をまかされ、石材は、かつて東甲良小学校の奉安庫を解体したものが使用されています。英霊176名の戒名と俗名が記入された名簿が台座の中に納められています。
戦後79年をむかえ、当時の様子を聞き伝えていくことが難しくなってきましたが、二つの石碑は、戦争がどこか遠くの場所のこと、自分に無関係なことではないと語りかけてきます。
戦後、石碑は遺族会によって守られてきましたが、老朽化や維持管理の難しさから解体撤去されます。新たに恒久平和を願い甲良豊後守公園の一角に「平和の礎」と刻んだ新たな石碑が建立予定です。
参考資料:改定新版世界大百科事典、甲良町史、ヤッサの里金屋誌
問合先:ふるさとプロジェクト(図書館)
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