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写真でたどる ふるさと再発見 No.58

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滋賀県甲良町

【尼子住泉寺の玄翁(げんのう)堂】
石を砕く金槌を「げんのう」といいますが、なぜそう呼ばれているかご存知ですか。
その呼び名は曹洞宗の高僧、玄翁(玄能とも言う)和尚の「殺生石」のお話が由来となっています。
栃木県の那須高原に、近づくものを皆殺すという「もののけのついた殺生石」があって、人も動物も鳥もその場所に近づけませんでした。そこで玄翁和尚は、石の前に立ち、たたりを除く教化文(仏の力で正しく導く経)を唱え、石を柱杖で打ち砕くと、悪霊はことごとく成仏することができたというお話です。玄翁和尚が殺生石を砕いたことから和尚の名を取ってそう呼ばれるようになりました。
玄翁和尚は、南北朝時代に越後(新潟)で生まれました。禅宗の修行を積み諸国行脚を重ね、周囲には千余人の修行僧もおられたという高僧です。
そんな玄翁和尚の木像が、尼子にある尼子氏の菩提寺、住泉寺(浄土宗)にあるのです。
住泉寺に残る「玄翁禅師略伝」には、木像が尼子に来た経緯が記されています。それによると「天正の頃(1573~1591)、栃木県の泉溪寺(せんけいじ)の僧が木像を補修するため像を背負い京都をめざしていたが、甲良の荘にいたって病気で死んでしまった。そこで尼子氏某これを悼み、この像を抱き住泉寺に安置した」とあります。
この木造を住泉寺に祀ったのが領主尼子氏某だとしていることから佐々木道誉の孫で尼子に住み尼子氏を名乗った「尼子高久」の子孫が近世初期まで続いていたようです。
当時から玄翁和尚の高名や殺生石の話は伝わっており、村人たちから深く慕われ祀られてきました。
現在、住泉寺の境内に玄翁(げんのう)堂という立派なお堂があります。(明治初期に多賀大社の護摩堂を移築)
内部中央の御厨子の中には、写真のように玉眼入りで、まるで生きている人のような玄翁和尚の木像が安置され、左右には三十三ヵ所観音諸像とともに、殺生石の入った御厨子も祀られています。
また住泉寺玄翁堂は、古くから甲良神社春の大祭の渡御の最初のお旅所で、神輿が境内に入りお堂の中で祝詞が奏上されます。尼子氏や玄翁和尚への深い思慕と安寧を願う神仏一体の儀式で、領主尼子氏時代から今に至るまで続いています

参考資料:玄翁禅師伝現出と真如堂信仰 甲良町史

問合先:ふるさとプロジェクト(図書館)
【電話】38-8088【FAX】38-8089

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