■和田出身の戦国武将 和田惟政 甲賀町
和田(わた)には、和田川に沿って開けた谷の丘陵上に、7つの城館が築かれました。その中でも最も谷の奥に築かれたのが、和田城(わだじょう)です。
和田城は一辺50mの主郭(しゅかく)を中心に構え、その外側にも曲輪(くるわ)を設けています。また高さ7mにもおよぶ土塁(どるい)や、幅10m、深さ7mの巨大な堀切(ほりきり)によって、敵兵の侵入を防ぎます。このような特徴的な構造を持つことから、和田谷の城館群の中でも中心的な城であったと考えられます。
和田谷では、和田城を中心として各所に城を築き、それぞれが連携することによって、一つの城のように谷全体の防衛機能を果たしていたと考えられます。
和田の城館群の築城主体は、この地域を支配した土豪(どごう)「和田氏(わだし)」と考えられています。
和田氏一族の中で知られた人物に、戦国期の武将「和田惟政(わだこれまさ)」がいます。惟政は、室町幕府に奉公衆(ほうこうしゅう)として仕えており、永禄(えいろく)8年(1565)に13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)が暗殺されたときには、その弟で大和興福寺にいた一乗院覚慶(いちじょういんかくけい)(後の足利義昭(あしかがよしあき))を細川藤孝(ほそかわふじたか)と協力して脱出させ、自らの屋敷にかくまったことで知られています。この屋敷は市史跡公方屋敷跡(くぼうやしきあと)と考えられています。
惟政は織田信長にも仕え、数々の功績を挙げ、摂津(せっつ)国の芥川城(あくたがわじょう)と高槻城(たかつきじょう)の城主となります。
しかし、元亀(げんき)2年(1571)に起こった白井河原(しらいかわら)の戦いで、惟政は戦死しました。惟政の墓は近江八幡市安土町の浄厳院(じょうげんいん)にあります。また、甲賀町和田の公方屋敷跡にも、惟政のものと伝わる五輪塔があり、地元有志によって大切に守られています。
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