■古(いにしえ)写真館(5) 戦争と平和への祈り
世界中では今なお東欧、中東を中心に戦争が起こっています。日本は昭和20年の終戦から今年で79年を迎えますが、当時の出来事を経験した人たちが少なくなる中で、戦争の悲惨さ、命の尊さを忘れないようにすることが今後も大切になります。今回は戦争と本市との関わりについて紹介し、戦争の記憶を風化させないための機会にしたいと思います。
本市に残る戦争の痕跡(こんせき)の一つとして、昭和17年に現北之庄町の山腹に建設された射撃場の「監的壕(かんてきごう)」があります。監的壕とは射撃訓練で射撃の命中を確認するための建造物のことです。コンクリート造で、長さ19・5メートル、内幅0・9メートル、深さ2・2メートルを測ります。八幡商業学徒がこの射撃場で実包射撃訓練を行っていましたが、2年後の学徒動員により学生が招集されたことでほとんど使われなくなりました。射撃場跡は周辺地形の変化により、現在では詳細が不明ですが、監的壕は現在でもその姿を留めています。
戦時中の市民の生活に目を向けてみると、戦争が長引いたことで経済統制が行われ、食料品や生活用品などが配給制となっています。昭和14年には「ぜいたくは敵だ」のスローガンの下、滋賀県下でも遊興業者に対し自戒、自粛の指示が出ています。また、出征する人々や戦死者が増えたことにより、残された家族の生活をどう守るかという問題が起き、昭和15年に八幡縫製授産場が開設され、出征軍人家族や遺家族の雇用と戦争の支えとして機能していました。また戦時中の学校では、昭和16年に「国民学校令」が施行されたことで、尋常高等小学校から国民学校に名を改称し、これまでの郷土的な教育から国家主義的な教育へと変更されていきました。昭和18年には、学徒動員令が公布、兵役法の改正により徴兵年齢が17歳に引き下げられるなど、当時の学生も戦争に巻き込まれていくことになりました。また、昭和19年には、空襲の危険がある大阪市から4つの国民学校が本市へ学童疎開しています。八幡商業学校では、戦争への士気を高めるために八日市飛行場から戦闘機を運び込み校庭に展示されていました。このことからも当時の戦争意識への高まりを垣間見ることができます。
旧近江八幡市出身の陸海軍所属で、昭和初期から昭和45年までに戦没された人は1712人で、滋賀県全体では32592人が戦争が原因で亡くなられています。戦争の記憶を風化させないために、私たちにできることは何なのか今一度考え、平和に祈りを込めて今回は終わりとさせていただきます。
※写真は本紙をご覧ください
1.北之庄射撃場での訓練風景(近江八幡図書館蔵)
2.校庭に展示される戦闘機(為心町上会議所蔵)
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