■知られざる大名の江戸暮(ぐ)らし
江戸時代、大名は1年ごとに江戸と自分の領地に住むことが義務付けられていました。歴史の教科書でおなじみの参勤交代(さんきんこうたい)の制度ですが、大名が江戸でどのように過ごしていたのかあまり知られていません。今回は大名の江戸生活に迫ります。
1 江戸城に登城
江戸滞在中の大名は、毎月3回(1日・15日・28日)、朝から江戸城に登城し、将軍に対面して御礼を述べることが定例となっていました。これは「月次御礼(つきなみおんれい)」と呼ばれ、大名の公務で最も重要なものでした。この他、年始や五節句(3月3日の桃の節句や5月5日の端午(たんご)の節句など)、徳川家康が江戸城に入った日とされる八朔(はっさく)(8月1日)の祝日など、江戸城内で開催される季節ごとの公式行事の日にも大名は登城を義務付けられていました。
2 火事場へ急行
頻繁に大きな火事に見舞われた江戸では、消火活動を行う火消隊がいくつも組織されていました。このうち、江戸城や大名屋敷での火災に出動したのが「大名火消」と呼ばれた火消組織で、華美な火事装束を身にまとった大名自身が陣頭指揮を執(と)り消火活動にあたりました。第3代藩主の細川興生(おきなり)は、江戸滞在中に2度火災現場に出動した記録が残り、享保2年(1717)1月22日に発生した江戸城の火災では、江戸城の北に架(か)かる一橋御門(ひとつばしごもん)の防火にあたり、幕府からその功績を褒賞(ほうしょう)されています。
3 お公家(くげ)さんの接待
天皇のお言葉(勅旨(ちょくし))を将軍に伝える際、京都から江戸に天皇の使者が派遣されました。天皇の使者を「勅使(ちょくし)」、上皇の使者を「院使(いんし)」と呼び、江戸における彼らの世話は外様大名が務めました。食事や酒を提供して接待することを「馳走(ちそう)」といい、この役目は「勅使(院使)御馳走役」と呼ばれました。身の回りの世話から江戸城への案内、贈り物の手配、話し相手に至るまで、礼儀作法の指南役である高家(こうけ)の指導を受けながら、宇土藩はしばしばこの役目を務めています。接待に必要な費用や高家に納める指導料は全て大名の負担とされたため、一度の役目で数千両を要しました。
4 江戸城門の警備
江戸城の内堀と外堀には大小100以上の城門があり、各城門の警備は大名や旗本が交代で行いました。宇土藩は江戸城北東にある神田橋御門(かんだばしごもん)や常盤橋御門(ときわばしごもん)を担当し、門の開閉や通行人の監視・取締りなどの門番業務を務めました。この役目は江戸参勤中の大名が1年間担うことになっており、江戸藩邸の家臣の一部が門に詰めました。通常、大名自身が門に詰めることはありませんでしたが、御成(おなり)(将軍の外出)の際に将軍が門を通行する時は、正装姿の大名が門に控えました。
5 余暇
多忙な公務の合間に、親しい大名同士で茶会や歌会を通じて交流したり、能を鑑賞したりするなど余暇を楽しむこともありました。歴代の宇土藩主の中で江戸での生活を謳歌(おうか)した人物が、文人大名として名をはせた第5代藩主の細川興文(おきのり)でした。様々な芸事に関心を示し、マルチな才能を発揮した興文が特に熱心に取り組んだのが尺八でした。琴古(きんこ)流尺八の家元・黒沢琴古のもとに足しげく通い、稽古に勤(いそ)しんでいる記録が残されています。
多忙で気苦労が多かった大名の江戸生活。幕府から課される公役(くやく)や大名同士の交際にも莫大な費用がかかり、藩の財政悪化の大きな要因になりました。興文のように江戸を楽しんだ大名がいた一方、幕府や他大名との付き合いやお金のやりくりに頭を悩ませていた大名も多かったことでしょう。
〔参考文献〕・『新宇土市史』(通史編 第二巻)
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