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第113回 温故知新~うと学だより~

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熊本県宇土市

■熊本城の宇土櫓(前編)

熊本地震で大きな被害を受けた熊本城宇土櫓の復旧工事のため、2024年1月から宇土櫓の本格的な解体工事が始まります。工事中は建物を風雨から守るための素屋根(すやね)が設置されて建物全体が覆われますので、復旧工事が完了する予定の2032年まで宇土櫓の姿が見られなくなります。

▼宇土櫓=宇土城の天守閣?
この宇土櫓は、宇土城の天守閣を移築したものと考えられてきました。江戸時代中期に編纂された「古城考(こじょうこう)」という熊本の古いお城の歴史をまとめた文献にも「(宇土城の)天守を清正熊本城内に引移して、宇土櫓と称す」と書かれています。こうした文献や、「宇土櫓」といういかにもそれらしい櫓の名前から、この説は現在まで人々の間で共有され、信じられてきました。しかし、この説に対しては、昔から一部の研究者の間で異論が唱えられており、現在では否定されつつあります。

▼宇土城の天守閣
小西行長によって築城された宇土城(城山)は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、加藤清正が所有しましたが、清正死去翌年の慶長17年(1612)に江戸幕府の命令により破却されました。宇土城の詳しい絵図は残されていませんが、清正存命中に作成された「慶長国絵図(けいちょうくにえず)」という絵図には宇土城に三層の櫓が描かれています。これが天守閣で、当時は宇土城本丸に天守閣が存在していたことを示しています。また、宇土城跡からは「慶長十三年」の年号を持つ瓦も見つかっていますので、慶長13年頃に清正による宇土城改修工事が行われたと推定されます。清正は息子に家督を譲った後は、宇土城を自身の隠居城(いんきょしろ)にしようと考えていたようです。
つまり、清正が死去して宇土城が廃城される慶長17年までは宇土城に天守閣が建っていたと考えられ、仮に宇土城天守閣が熊本城に移築されたのであれば、それは慶長17年以降の出来事になります。

▼熊本城小天守への移築説
宇土櫓の土台石垣は、石の積み方から清正存命中に築造された可能性が指摘されていますので、その上に建つ宇土櫓も清正存命中に建築されたと考えられます。一方で、熊本城大天守に並んで立つ小天守は、当時のいくつかの絵図を比較すると、清正死後に建築されていることが判明します。そのため、宇土城天守閣は熊本城小天守として移築されたと考えたほうが、年代的には合致します。
実は、この小天守移築説は、江戸時代からすでに指摘されていました。元禄13年(1700)に編纂された宇土城の歴史をまとめた「肥後宇土軍記」という文献には、「宇土ノ天守ハ清正代ニ熊本之城ニ被為引(ひさなされ)、小天守と名付被建置候(たておかれそうろう)」(現代語訳:清正の時代に熊本城に移築し、小天守と名付けて建てた)と書かれています。

熊本城の大小の天守閣は、明治10年(1877)の西南戦争で焼失し、建物の移築跡を調べることはできません。しかし、石垣の年代や当時の絵図・史料などを検討すると、宇土城天守閣は宇土櫓ではなく熊本城小天守として移築されたとする説が現在では有力視されています。

問い合わせ:文化課 文化係
【電話】23-0156

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