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第117回 温故知新~うと学だより~

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熊本県宇土市

■庶民の夢 江戸時代の宝くじ
◇江戸の富(とみ)くじ
「アターッ⁉⦆タータッタタッ‼」
古典落語「富久」(とみきゅう)で千両くじが当たった久蔵(きゅうぞう)が腰を抜かして慌てふためく様子。いつの時代も一攫千金(いっかくせんきん)は庶民にとって夢のまた夢です。
日本における宝くじ(富くじ)のルーツは、約400年前の江戸時代の初めまでさかのぼります。摂津箕面(せっつみのお)(大阪府箕面市)にある瀧安寺(りゅうあんじ)が宝くじ発祥の地とされ、もともとは正月に特別な御札(おふだ)を授(さず)ける当せん者3人を決めるためのくじでした。しかし、次第に賞品が金銭に替わり、現在の賞金制の宝くじにつながっています。当時は、番号が書かれた木札を富箱(とみばこ)に入れ、小さな穴から錐(きり)で木札を突(つ)き刺して当たり札を選んでいたことから、「富突き」と呼ばれました。
18世紀(1700年代)に入ると、大きなお寺や神社が建物の修理費用を集めるために富くじ興行を開催しました。最盛期の文政年間(1818〜30)には、江戸のどこかで毎日のように興行が開催されていたほどで、富くじを題材にした「富久」「宿屋(やどや)の富」「御慶(ぎょけい)」などの落語が人気を博したように、江戸っ子たちは富くじに夢中になりました。18世紀後半には全国各地で興行が開かれるようになりましたが、ブームが過熱するあまり、風紀の乱れを懸念した幕府は、天保13年(1842)に富くじを全面的に禁止しました。

◇熊本の富くじ
熊本では、元文2年(1737)に浪人・平塚藤左衛門(とうざえもん)なる人物が蓮台寺(れんだいじ)境内(西区蓮台寺)で開いた興行が最古の記録で、自分の家屋敷と家財道具を賞品にして富札を販売しました。
寺社の富くじでは、藤崎八旛宮(ふじさきはちまんぐう)が有名で、社殿の修復や神官たちの経済的困窮を救うため、宝暦3年(1753)から始まりました。年6回の開催で、1回の興行で1枚60文(※)の富札3万5000枚が売り出され、当たり本数は251本、一等賞金は5貫目(約83両)でした。城下の有力商人が興行を仕切る世話人となり、開催日には藩から派遣された足軽たち15名が多くの人でごった返す富場(とみば)(抽せん会場)を警備しました。
熊本では富くじのことを「富講(とみこう)」と呼び、藤崎八旛宮の他、大慈寺(だいじじ)(南区野田)、本妙寺(ほんみょうじ)(西区花園)、往生院(おうじょういん)(西区池田)でも富講が開催されました。

◇宇土の富くじ
藤崎八旛宮の富講開始から5年後の宝暦8年、宇土でも富講が始まりました。当時の宇土藩主・細川興文(おきのり)は、富講の利益で厳しい藩財政を補填(ほてん)しようと思いつき、宇土藩が熊本藩に富講開催の許可を求めた際も、開催理由に「御勝手向不如意(おかってむきふにょい)」(財政困窮(こんきゅう))を挙げ、このままでは参勤交代もできないと嘆いています。このように宇土の富講は、宇土藩の財政再建が目的でしたので、主催は藩の役所でしたが、宇土町の商人が興行を取り仕切り、三宮社(さんぐうしゃ)(現在の西岡神宮)を富場として毎月25日に開催されました。
当初10年間限りとされていた開催期間は、その後も熊本藩に期間延長を願い出て、幕末まで続けられました。収益額は不明ですが、収益は轟泉(ごうせん)水道の改修費や参勤交代の旅費などに充(あ)てられ、藩財政の重要な収入源になりました。
残念ながら、当せん本数や賞金額、当せん者のことが書かれた記録は残っていません。大金を掴(つか)んだ宇土の庶民はその後どのように暮らしを送ったのでしょうか。

※60文 現在の1500円前後

問合せ:文化課 文化係
【電話】23-0156

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