平成10年に湯前町教育委員会が発行した『湯前の石造文化財』という本に、上高見(野中田3)の墓地にある1基の墓碑(ぼひ)が掲載されています。墓碑の正面には「雲雪道晴信士」「享保(きょうほう)四己亥年三月廿二日」「俗名宅广(麻)次良(郎)左衛門」「孝子平蔵」とあり、享保4年(1719年)に亡くなった宅麻次郎左衛門(たくまじろうざえもん)という人の墓で、子の平蔵が建てたことが分かります。右側面には次の和歌が刻まれています。「雲の出てみあけ(げ)て見れば雪の空かけ(げ)もかたちもきへ(え)て行(ゆく)もの」。和歌を刻んだ風流な墓の主は、いったいどのような人物だったのでしょうか。
■人吉藩主相良頼喬(さがらよりたか)の時代
江戸時代の人吉藩主に相良頼喬がいます。頼喬が藩主となった17世紀後半は、戦乱もなく泰平(たいへい)の世となり、生活水準も向上し、素養としての武道や学問、文化が武士に求められる時代でした。頼喬も武道や芸術のたしなみがあり、僧侶や儒者(じゅしゃ)、医者、浪人など才能のある人物と面会しては、知識を新たにしていたようです。江戸時代にまとめられた相良家の歴史書『歴代嗣誠独集覧(れきだいしせいどくしゅうらん)』には、武道や学芸によって頼喬に召し抱えられた人々のことが記されています。数々の名前の中に宅麻次郎左衛門の名前もありました。
■宅麻次郎左衛門とは
『歴代嗣誠独集覧』によると、宅麻次郎左衛門は軍学者で、兄の宅麻台庵が江戸で頼喬と親しくしていたことで召し抱えられました。槍(やり)や棒、石火矢(いしびや)の使い手で、貞享(じょうきょう)年間(1684年~1687年)に球磨郡に来て、二人扶持(ににんぶち)※を給与されました。はじめは西ノ村(錦町)に居住し、後に湯前村に移り、湯前村で病死したということです。
宅麻次郎左衛門が球磨郡でどのように過ごしたのか定かではありません。遠い異郷(いきょう)の地で病となり「ふと見上げてみると雪の空、雪のようにやがては消えてなくなるわが身」と達観(たっかん)して詠(よ)んだ辞世の一首だったのかもしれません。
今回、現地を訪ねてみましたが、倒れているのか、やぶに埋もれているのか、墓碑を見つけることはできませんでした。球磨人吉全体でも和歌を刻んだ墓碑は多くなく、中でも古い上高見の墓碑は、人物が文献から確かめられるという点でも貴重で、見つけ出したいものです。
※二人扶持…1人1日玄米5合として、1年分=1石8斗を扶持米として給付するのが一人扶持。二人扶持は二人分
(参考)田口徹「文学墓」『郷土』第16号、昭和63年梅山無一軒『歴代嗣誠独集覧』
教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)
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