昭和8年1月、城泉寺(浄心寺)の阿弥陀堂(あみだどう)と境内(けいだい)に立つ九重石塔・七重石塔が国宝(旧国宝)に指定されました。国宝指定に前後して、徳富蘇峰(そほう)や山崎正董(まさただ)など知名の士が城泉寺を訪れていて、城泉寺がだんだんとに有名になっていったことが分かります。
■戦争前後の動向
時代は戦争へと突入しつつありました。戦時中の湯前国宝保存会の動向は不明です。活動ができる状況ではなかったと思われます。
国宝保存会が活動を再開したのは、終戦後の昭和22年4月のことでした。明導寺の藤岡孝雄が会長となって、城泉寺の保存に向けた活動を再開したようです。城泉寺では屋根の破損が進行し、雨漏りしていました。九重石塔の最上部は先年の暴風雨で落下し、無くなっていたようです。保存会では、修理費用が課題となっていました。
■重要文化財への移行
一方で、日本の文化財保護制度も大きな転換期を迎えていました。昭和25年、奈良の法隆寺の火災をきっかけに文化財保護法が制定されました。従来の国宝は重要文化財に指定されたものとみなし、重要文化財の中でも特に優れたものが改めて国宝に指定されることになりました。
同法の制定で、城泉寺も重要文化財となりました。翌年昭和26年3月31日、本町は「湯前町重要文化財顕彰保存会設置条例」を制定しました。同条例では「本町にある重要文化財を保存し、活用を図り、広く文化に貢献する」ために会を設置し、重要文化財の管理や修理など、保存に必要な取組を進めることを定めています。管理人についての規定もあり、今に続く本町の文化財管理人制度につながります。
■城泉寺祭典の開催
昭和26年8月24日、湯前町重要文化財顕彰保存会の第1回目の会議が開かれました。会長は湯前町長の豊永鶴一、副会長には町議会から田代鉄作、管理人には山北政常と明導寺に委嘱することが決まりました。続けて城泉寺の祭典について話し合われています。会議録によると「以前は春秋彼岸の中日が祭りであったが、保存会としてやるとき、年一回秋の彼岸の入りにしてはいかがか」との意見が出され、異議なく決定しています。催し物として太鼓踊りの出演を依頼することが決まりました。9月6日に第2回の会議が開催され、祭典の式次第や招待者などが具体的に決められ、9月21日に祭典が開かれました。
城泉寺の祭典は形を変えながら、今でも秋の彼岸の法要として続いています。
教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)
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