■第8回 菊池川の水運と港町
菊池川では古くから舟による交通が盛んで、人や物を運ぶ交通の大動脈として利用されてきました。
室町時代ごろに菊池氏(きくちし)が菊池川流域全体を勢力下に治めると、河口港である高瀬・伊倉を利用して海外との交流が始まり、大陸の明や朝鮮半島との貿易の拠点となりました。また、戦国時代になり大分の大友氏(おおともし)の支配下になるとキリスト教の宣教師も行き来し、活発な交流活動が行われました。
江戸時代になると、年貢米や物資の運搬をするために流域全体で舟着場(ふなつきば)の整備が進められます。現在の菊池市七城町の高島(たかじま)舟着場・山鹿市豊前街道下町の舟着場・和水町の菰田船継所(こもだふなつぎしょ)などがあり、流域の村はこれらの舟着場から菊池川を下って高瀬御蔵(たかせおくら)へ年貢米を納めました。年貢米は高瀬御蔵で厳重に検査・保管された後に米市場がある大坂堂島(どうじま)へ運ばれます。堂島の米市場に運び込まれた年貢米は、そこで取引をして換金し、それが藩の収入になりました。文化年間(1804~1811)の堂島への積出し量は熊本藩全体で約40万俵。そのうち高瀬20万俵・川尻15万俵・八代5万俵と、高瀬で取り扱う年貢米の量が藩内最大でした。高瀬御蔵で取り扱う年貢米が最も多いことから、その年貢米の品質と量が熊本藩の収入に影響を及ぼします。そのため高瀬御蔵では厳しく検査し、品質を保つ努力をしました。高品質で収穫量も安定していた熊本藩の米は、大坂の米市場で全国の中でもトップクラスの評価を受け、高値で取引されました。
高瀬から約4キロ下流、菊池川の河口付近に位置する晒は、江戸時代前期には番所や改小屋(あらためごや)が置かれ通行の管理を行う重要な地点でした。江戸時代後期になると菊池川の川床が浅くなり海辺の村から高瀬まで川を遡ることが困難になり、加えて高瀬御蔵での取り扱い量が増えたことから、晒にも年貢米の検査場が設けられました。以降、高瀬御蔵の支所としての機能を順次整備し、米の積出港としての役割も担っていきます。
晒の対岸にある大浜は、江戸時代以降船運業が盛んで大坂屋や長崎屋と号する廻船問屋(かいせんどんや)が繁栄しました。大坂への米運搬に従事する以外にも、年貢米以外の「納屋物(なやもの)」と呼ばれる農産物(米・麦・菜種・大豆・小豆など)を取り扱いました。取引地域は大坂をはじめ、備中玉嶋(びっちゅうたましま)・備前下津井(びぜんしもつい)・鞆浦(とものうら)などでした。帰りは繰綿(くりわた)(種を取っただけの精製していない綿のこと)や鯨油(げいゆ)を積んで戻ってきました。防火機能に優れた漆喰壁(しっくいかべ)の土蔵造(どぞうづく)りの建物が多く建てられ、それらの一部は現在も残っており当時の町並みをしのぶことができます。
大浜外嶋(としま)住吉神社・滑石の晒神社・繁根木八幡宮には商売繁盛と航海安全を祈って、廻船模型や灯籠(とうろう)・狛犬(こまいぬ)などが奉納されています。灯籠や狛犬には、備中玉嶋(岡山県)・摂州(せっしゅう)(大阪府)・下関(山口県)など西日本各地の廻船問屋関係者の名が刻まれており、交流の広さを示しています。前述3社の石造(せきぞう)狛犬は玉名市重要有形文化財に指定されています。
問合せ:文化課
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