■第10回 菊池川の中世河口港関連遺跡群
中世に安定した統治を行い米作りの発展に寄与した菊池一族は菊池川全体を勢力下に治めると、菊池川の河口に位置する高瀬と伊倉を利用して中国大陸や朝鮮半島との海外貿易を行いました。戦国時代には、キリスト教の宣教師も訪れ、活発な交流活動が行われました。特に伊倉には東南アジアとの貿易に携わった人々の墓や、キリシタン墓があることから国際色豊かな町であったことが伺えます。
□肥後四位官郭公墓(ひごしいかんかくこうぼ)
肥後四位官郭公墓は、玉名市伊倉南方に所在します。被葬者である「濵沂郭(ひんきかく)(銘文ママ)」は、現在の中国福建省出身で、日本に在留してフィリピンなど東南アジアと貿易を行った人物です。この墓碑は、息子の国珍(こくちん)・国栄(こくえい)が元和5年(1619)に建てたものです。「元和己未年仲秋吉旦」の銘があることから、紀年銘が明らかな唐人墓としては日本最古のものであることが分かっています。地域では「しいかんさんの墓」と呼ばれ、伊倉町やその近隣の人々から親しまれ大切に保存されています。
□振倉謝公墳(しんそうしゃこうふん)
振倉謝公墳は、玉名市伊倉北方に所在します。被葬者である「振倉謝(銘文ママ)」は前述の濵沂郭や後述の林均吾と同様に貿易に従事した人物と考えられています。昭和51年に玉名市教育委員会が行った発掘調査では木棺2点が出土し、それぞれの木棺から40歳未満の男性と40歳前後の性別不明のみられる人骨などが見つかりました。当時の中国の墓地形式から見て、この2人は夫婦であると推定されます。
□明人林均吾墓(みんじんりんきんごぼ)
明人林均吾墓は、玉名市天水町部田見に所在します。被葬者である「林均吾」は、マカオ・フィリピン・ベトナムなどへ船を出し広域に貿易をしていた「林三官(りんさんかん)」と同族関係にある物と考えられています。墓碑には「元和七年林均吾墓 男新作立(おとこしんさくたつる)」の銘文があり、元和7年(1621)に息子の新作が建てたことが分かります。
□吉利支丹墓碑(きりしたんぼひ)
吉利支丹墓碑は、玉名市伊倉北方に所在します。明治時代に地中から発見されました。かまぼこ形で正面に十字を刻んであり、キリシタン墓の特徴を表しています。明治時代に地中から発見されました。中世末から近世初頭にかけて、当地においてのキリシタンの存在を示す資料です。
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