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米作り、二千年にわたる大地の記憶~菊池川流域「今昔『水稲』物語」~

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熊本県玉名市

■第11回 菊池川流域の井手・ため池
井手(いで)とは、人工的に造った「農業用水路」のことです。菊池川流域では、井手は平安時代後半ごろから造られます。まず、水を確保するため、大小さまざまなため池を造成するか、川に堰せきを築き水をせき止め、そこから田に向けて溝を掘っていきます。標高の高い場所に水をためれば、そこより低い場所に水を引くことができるため、ため池や川の堰は比較的標高の高い場所に造られました。
菊池市には原(はる)井手・築地(ついじ)井手・古川兵戸(ふるかわひょうど)井手など、山鹿市には御宇田(みうた)井手・津留(つる)井手・小坂(おさか)井手など、和水町には平野(ひらの)井手、玉名市には寺田(てらだ)井手・河崎(かわさき)井手・浮田溜池(うきたためいけ)があります。

□寺田井手
寺田井手は、寺田井樋(いび)や寺田井樋用水とも呼ばれます。
慶長10年(1602)、加かとう藤清きよまさ正が行った新田開発により、塘下(ともした)8カ村(小島・千田川原・小野尻・川島・北牟田・大浜・大園・横島)と呼ばれる600ヘクタール以上の小田牟田新地が完成しました。その際に井手も造り木葉川の水を小田牟田まで引き入れましたが、十分な用水は確保できず農民は干害に苦しめられました。そこで宝暦14年(1764)、玉名村出身の小田手永惣庄屋(おだてながそうじょうや)小田次左衛門(おだじざえもん)とその子茂助(もすけ)は、寺田に新しく井手を掘って菊池川から取水し木葉川の水と合わせて用水を確保する工事を行いました。この工事により小田牟田は干害を免れるようになりましたが、それでもなお水面が田地より低い所もありました。文政12年(1829)、小田手永惣庄屋三村章太郎(みむらしょうたろう)の改修により、小田牟田のみならず海辺の干拓地まで用水が行きわたるようになりました。この井手は今でも、小田牟田や横島に用水をもたらしています。
村人は彼らの功績をたたえ石碑を寺田に建てました。正面には「井手乃碑」の字と小田親子の功績をたたえる451字の碑文、背面には「後の井手乃碑」の字と三村章太郎の功績をたたえる407字の碑文を彫ってあります。

□河崎井手
菊池川右岸の小浜・滑石・高道がある大野牟田は、江戸時代後期になり干拓地の増加により用水が不足するようになりました。そこで文化年間(1804~1817)の末期、滑石村庄屋大野十左衛門(おおのじゅうざえもん)は河崎に井手を造って菊池川から大野牟田へ用水を引き入れる工事を行いました。この井手は十左衛門の名から「十左衛門堀」「じゅうじゃぼり」とも呼ばれます。さらに天保13年(1842)、坂下(さかした)手永惣庄屋三村章太郎は迫間(はさま)村に水門を設けて井手につなぐ工事を行い、海辺の干拓地まで用水が行きわたるようになりました。
この2人の功績を後世に伝えようと、慶応2年(1866)に木下初太郎(きのしたはつたろう)の筆による顕彰碑が河崎に建てられました。
大野十左衛門は滑石村出身で、墓は滑石にあります。また、同地の大野神社は大野十左衛門を祭っています。

□浮田溜池
浮田溜池は、玉名市岱明町開田と玉名市築地に所在する3つの池がつながったため池です。上から、上ノ池、中ノ池、下ノ池と呼ばれます。まず、坂下手永惣庄屋(さかしたてながそうじょうや)清田新之允(きよたしんのすけ)が文化13年(1816)に中ノ池を築造し、庄山村・友田村・上村・中程村・下村に用水をもたらします。しかし、行末川下流域の村々では、干ばつの際に行末川の上流各所で堰き止められ水不足に悩まされていました。そこで、嘉永5年(1852)に坂下手永惣庄屋関忠之丞(せきちゅうのじょう)が上ノ池と下ノ池を築造し、鍋村・扇崎村・山下村・野口村・開田村・築地村など15カ村に用水が行きわたるようになりました。
この工事の恩恵を忘れないようにと、忠之丞の功績をたたえた頌徳碑(しょうとくひ)が下ノ池の脇に明治39年に村人たちにより建てられました。
浮田溜池は現在も周辺の地域に用水をもたらしています。

問合せ:文化課
【電話】75-1136

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