■伊形霊雨と歌
江戸時代中期、全国的に学問への関心が高まり、各地に藩校が設けられ、藩士の子弟たちが教育を受けました。木葉村の生まれである伊形霊雨(いがたれいう)は、明和2(1765)年に熊本藩の時習館(じしゅうかん)に入学します。霊雨は漢詩、国史、和歌などに秀でていたため、藩命によって京都に留学し、公卿(くぎょう)(※1)滋野井公澄(しげのいきんすみ)の門人となります。また、ある公家の邸では、下記の和歌を披露して周囲を驚かせたとされています。
※詳しくは本紙をご覧ください。
霊雨が詠んだ歌は他にも、時習館の教授が作った歌集『樂泮集(がくはんしゅう)』にも乗せられており、彼自身も和歌集『民草婦利(たみくさぶり)』や『霊雨山詩集』を編集しています。霊雨の歌からは、その心情や人となりが見て取れます。
※1…公家の中でも特に地位の高い身分
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