■scene1 温泉街の現状
このまま何もしなければ「菊池温泉」という言葉自体がなくなるかもしれない」。菊池温泉街の今後を考える会「このまま何もしなければ「菊池温泉」という言葉自体がなくなるかもしれない」。菊池温泉街の今後を考える会しました。
バブル期に最盛期を迎え、多くの団体旅行客で盛り上がりを見せた菊池温泉街。しかし、変わりゆく旅のニーズを捉えきれず、宿泊客は減少。バブル崩壊後、多くの宿泊施設が廃業に追い込まれました。にぎわいは薄れ、通りを歩く人も少なくなっています。
そんな中、宿泊施設や飲食店、行政などが集い、温泉街の再生に向けた検討が始まりました。
「このままではいかん」「これが最後のチャンス」。今年で湧出70周年を迎える菊池温泉を次の世代に残そうと奮闘する関係者たちの思いに迫ります。
■scene2 観光客が押し寄せた菊池
《温泉街の繁栄と衰退》
最盛期には年間40万人が訪れ、活気にあふれていた菊池温泉街。
そのにぎわいも長くは続かず、過去のイメージに縛られ苦境に立たされます。
温泉街と共に過ごしてきた関係者に当時の様子を聞きました。
◇桑畑が観光街に
菊池温泉の歴史は比較的新しく、泉源を発掘したのは昭和29年でした。当時の隈府町の商工会長だった村川信彦(むらかわのぶひこ)さんや有志が「町を発展させたい」と官民を巻き込み温泉開発に成功。桑畑だった正観寺周辺は一変しました。
昭和30年には旅館第1号として隈府会館が開業。大中小の温泉旅館建設が続き、軒を並べました。
九州各地から車で2~3時間と地理的に有利な他、菊池渓谷をはじめ観光名所にも恵まれ、県内有数の温泉地に発展しました。昭和50年頃には社員旅行などの団体客が宿泊者の大半を占めるようになりました。
◇きらめくネオン、盛り上がる宴会
「この時期、温泉街は人混みでまともに歩けなかったよ」と話すのは菊池温泉観光旅館協同組合(以下:組合)の岩永誠(いわながまこと)代表理事。毎週末、花火大会のような活気がありました。
「朝まで宿泊客のゲタの音が鳴り止まなかった。近所から苦情がきたから、音がしないよう履物を雪駄に切り替えたんだよ」と当時を振り返ります。
組合に加盟する宿泊施設は最盛期には25軒を数え、約2千人の宿泊客を収容できました。温泉街の近くには飲食店やバーが約80軒立ち並び、夜の歓楽街も形成されました。
バブル景気の頃には絶頂を極め、年間40万人の宿泊客が菊池温泉街に押し寄せました。「気付いた時にはお客さんの大半が男性ばかりになっていた」と岩永代表理事は話します。
◇温泉街存続の危機
そんな時代も長くは続きませんでした。バブル崩壊後は宿泊客は減少。多くの宿泊施設で経営が悪化しました。旅行スタイルが団体から個人へシフトする風潮もあいまって、平成元年ごろをピークに宿泊客の数は年々減り続けました。
「今のままではいけないという危機感がありました」と話すのは菊池温泉おかみ湯恵(ゆめ)の会の樋口和代(ひぐちかずよ)会長。組合や行政などと一緒に、九州一円の旅行代理店や各種団体を300カ所程度回り、宿泊客獲得を目指しました。
他にも、家族連れや女性客にも訪れてもらおうと、平成16年から市内の街歩きや地元料理のふるまいを始めたといいます。
しかし、減少した客足は思うように戻らず、多くの宿泊施設が廃業に追い込まれました。「団体客を中心とした歓楽的な温泉街のイメージが払拭できませんでした」と樋口会長。現在、組合に加盟する宿泊施設は7軒。温泉街にとって危機的な状況が続いています。
市立図書館のデジタルアーカイブでは、施設のマッチ箱や昔の温泉街の様子など、画像で見ることができます
《菊池温泉のはじまり》
◇斜陽の街を救った村川さん
その昔、カイコと衣料の町として知られていた菊池。戦後は斜陽のまちとして廃れるばかりでした。そんな中、昭和26年に「観光都市として発展させるために温泉を掘削したい」と立ち上がったのが当時の隈府町・商工会長の村川信彦(むらかわのぶひこ)さんを中心とした有志たちでした。
掘削事業に必要な資金は1千万円。協力金を募るために町内を毎日のように自転車で駆け回り、見事資金を調達しました。昭和29年に現在の東正観寺付近で掘削を試みたところ、待望の温泉が湧出。村川さんの功績をたたえるため、昭和52年には名誉市民に選ばれています。
《菊池温泉薬師祭》
◇受け継がれる思い
菊池温泉観光旅館協同組合では、初めて温泉が湧出したことにちなみ、毎年10月30日を「温泉湧出の日」としています。
その日には、温泉の恵みと温泉発掘に携わった人たちに感謝を込めて、薬師堂で薬師祭を開催。先人たちの思いは70年経過した今でも受け継がれています。
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