市制100周年の今年、地元の中原区について改めて深掘りしてみませんか。普段、何げなく目や耳にしている地名・地区名の由来を知れば、もっともっと愛着が深まるでしょう。思わず、「へえ~」と言いたくなりそうな豆知識を地区ごとに紹介します。
■小杉御殿町(こすぎごてんちょう)
徳川家康は慶長8(1603)年に、江戸(現在の東京)に幕府を開きました。家康から3代将軍・家光の時代までは現在の東海道がまだ整備されておらず、京都や駿府(現在の静岡県)への往来には、中原街道を使っていました。その旅の途中の休憩場所として小杉に仮の御殿がつくられたことが、町名の由来です。
「中原街道」の名前の由来も、家康の時代までさかのぼります。家康が現在の平塚市に設けた中原御殿への行き来に利用した街道であることから、中原街道と呼ばれるようになりました。
■神地(ごうじ)
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、現在の中原区には「稲毛庄(いなげのしょう)」という荘園がありました。荘園とは、当時の貴族たちの所有地のことです。その稲毛庄の境界の目印に関する地名に「宝池(ほうち)」があり、それが「神地」に変化したとする説や、神社の領域に関する地名だったとする説もあります。
神地が属する「上小田中(かみこだなか)」という地名は、戦国時代末期の文書に初めて登場。上小田中は大きな村だったため、神地と大谷戸(おおがやと)に分けて支配されていました。
「神地」は町名としては残っていませんが、町内会名(神地町内会)や橋の名前(神地橋)として受け継がれています
■丸子(まるこ)地区
江戸時代より前、「丸子」は「まりこ」と呼ばれていたことをご存じでしょうか。江戸時代以降、「まるこ」の音に変わりました。
「丸子(まりこ)」の由来としては、川の渡しを仕事としていた「丸子部(まりこべ)」の人々が住んでいたことにちなむという説が有力です。
「まりこ」の地名は、静岡県など他県にもあり、その多くは川を渡る場所です。
昭和10(1935)年の丸子橋完成まで、中原街道を通る人にとっては、舟で渡る「丸子の渡し」が多摩川を渡る唯一の手段でした
■苅宿(かりやど)
平将門にちなむ話が伝えられています。平安時代前期、将門は武力で関東を支配し、自分を新皇(しんのう)と呼ばせました(天慶(てんぎょう)の乱)。この時期の戦いの途中、将門はこの辺りを通り、草原の広がるこの土地で日が暮れたため、家来に命じて仮寝の宿を作らせたことが由来になったといわれています。
苅宿生まれの福地孝一さん
ほかにも室町時代に江戸城を築いた太田道灌が江戸城を築く前、幸区の夢見ヶ崎に城を造ろうと現地に向かう途中で仮の宿にしたから、という説もあります。
ここで生まれ育って88歳。昔は周りに桃の木が多かった。今は毎日、保育園、小学校の登下校時の見守りを続けています。子どもたちの笑顔が元気の源。苅宿の地域に恩返ししていきたいです。
■玉川(ぎょくせん)地区
北谷町にある玉川(ぎょくせん)小学校の名をとって、上平間・中丸子周辺が「玉川地区」と呼ばれるようになりました。
玉川小学校の歴史は、明治37(1904)年の御幸村立尋常玉川小学校の創立までさかのぼります。
玉川小学校辰口校長
「玉川(ぎょくせん)」の校名は、当時の御幸村村長が多摩川の美しい流れをイメージして発案しました。既に対岸に「玉川(たまがわ)小学校」があったため、「ぎょくせん」と読むようにしたという説もあるようです。
玉川小学校は2024年、創立120周年です。児童の親、祖父母、さらにその前の世代まで玉川小学校の卒業生、ということも珍しくない地域です。地域の皆さんに日々の学校活動を支えられ、子どもたちは育っています。
※地名の由来については、市発行「川崎地名辞典(上)」(日本地名研究所編)などを参考にしましたが、紹介した由来以外の説もあります。
区のほかの地名については、市内の地名の由来や歴史について掲載している市ホームページで紹介しています。
問い合わせ:区役所企画課
【電話】044-744-3149【FAX】044-744-3340
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