今回は、監督・小津安二郎や脚本家・野田高梧に続き、茅ヶ崎にゆかりのある映画人で、松竹を代表する脚本家・柳井隆雄を紹介します。
■脚本家への道のり
1902年2月15日、柳井は4人姉弟の末っ子として、現在の広島県福山市に生まれました。1914年、一家は柳井の父の弟を頼って朝鮮に移住しましたが、4年後に父が亡くなったため、家族を支えようと学校を中退し、朝鮮総督府逓信局電報調査課に入局しました。勤務の合間などにさまざまな小説を読み、愛読していた作家の一人、武者小路実篤が提唱した「新しき村」運動に共感しました。1922年秋に、友人とともに宮崎県児湯(こゆ)郡木城(きじょう)村にあった「新しき村」に入村。しかし、劇作家になる夢を持っていた柳井は、1924年に上京して「新しき村」の出版部である曠野(こうや)社に勤め、その傍ら新劇などを観て歩きました。
その後、曠野社を出た柳井は、1928年に松竹蒲田撮影所で開かれた脚本研究所が、研究生を募集していることを知り、第一回研究生に応募して合格します。研究生となった柳井は、脚本家・野田高梧などの指導を受けて、脚本家としての道を歩み出しました。同期には、『父ありき』の共同脚本を手がけた池田忠雄が、また一期下には、のちに茅ヶ崎館の「一番」の部屋の主と呼ばれ、『鐘の鳴る丘』などを書いた斎藤良輔がいました。
■デビューから松竹を代表する脚本家へ
柳井は研究生となった翌年の1929年、『岡辰押切帳(おかたつおしきりちょう)』で脚本家デビュー。特に、松竹蒲田撮影所時代に脚本を手がけた「与太者」シリーズは人気を集め、1933年の『与太者と海水浴』では茅ヶ崎でロケーション撮影が行われ、スタッフは茅ヶ崎館に滞在しました。また、小津に勧められた矢田津世子の小説「秋扇」を柳井が脚色した1938年の映画『母と子』は、この年のキネマ旬報ベストテン第3位を獲得しました。この作品は、原作の舞台である平塚を茅ヶ崎に変更し、主人公の母親の隠遁(いんとん)先として登場させていますが、これは柳井が茅ヶ崎に住んでいたことが理由と推測されています。茅ヶ崎という地域イメージを母と子が住む別荘地という設定にうまく結びつけたことで、原作の設定にリアリティを加え、物語を深めることに成功したといえます。このように、茅ヶ崎の風景は映画をとおして広められていきました。また、柳井はこの作品により、「大船調」と呼ばれた松竹の作風を支える脚本家の一人として高く評価されるようになりました。
柳井が脚色を手がけた1953年に封切ったメロドラマ『君の名は』(監督・大庭秀雄)の三部作は、それまでの日本映画の興行成績の記録を更新した大ヒット作となりました。柳井は、生涯で200本以上の脚本を担当し、松竹の代表的な脚本家としての地位を確立させました。
■茅ヶ崎での生活
柳井は戦前から茅ヶ崎に自宅を構えて住んでいました。小津の作品である『父ありき』の脚本を改稿する時には、同じく茅ヶ崎に住んでいた脚本家・池田忠雄とともに、小津が逗留している茅ヶ崎館に赴き、一緒に執筆を行ったこともありました。小津の日記には柳井の名前も多く登場しており、二人に親交があったことがうかがえます。また、同じく茅ヶ崎に住んでいた監督・大庭秀雄とは、1955年の時代劇映画『絵島生島』で再びコンビを組むなど、公私ともに交流がありました。
柳井は、1981年5月30日に79歳で亡くなりました。
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