◇不動明王像内納入品
一式(二十八点)
小田原市国府津(こうづ)の宝金剛寺(ほうこんごうじ)に伝わる不動明王及び二童子立像(りゅうぞう)のうち、不動明王像には全28点に及ぶ品々が、鎌倉後期から江戸中期にかけ、数度にわたり納入されました。
このうち鎌倉時代の経典18巻は、小さなお経ながら、鎌倉ゆかりの史料として貴重です。経典の奥書(おくがき)には、永仁(えいにん)2年(1294)、定聖(じょうしょう)という僧侶が両親や平清綱(たいらのきよつな)・祐時(すけとき)・祐為(すけため)などの縁者、先師である聖尊(しょうそん)・覚尊(かくそん)らの菩提(ぼだい)を弔うために発願(ほつがん)したこと、この写経事業が「鎌倉二階堂椙谷(すぎがやつ)勝福寺」で行われたことなどが書かれています。願主(がんしゅ)である定聖は、「東寺(とうじ)流」を自称する真言僧でした。また4人の写経僧のうち定胤(じょういん)は、永福寺で伝法灌頂(かんじょう)を受けたことが知られ、定聖と兄弟弟子であったと考えられます。
一方、奥書の中に書かれた人名・地名についてはほとんど明らかにされていません。平清綱らは、御内人(みうちびと)であった長崎氏の一族かとも想像されますが、同時代の史料や系図中にその名は見えず、また定聖の師匠2人についても不明です。勝福寺に関しても、伝法灌頂が行える規模の寺院で、永福寺の近くにあったこと以外、定かではありません。
写経が行われた頃、鎌倉はさまざまな天変に見舞われていました。前年の永仁元年には震災・日照りが発生し、さらに平禅門(ぜんもん)(頼綱(よりつな))の乱が起こるなど、世情は不安定でした。このような中、あまねく人々が仏恩を被ることができるよう、願いを込めて写経は行われたのでしょう。
その他の納入品には、延慶2年(1309)の経典納入や像の彩色について記した切紙、天文6年(1537)に地青寺(じしょうじ)(宝金剛寺の旧名)五世高伝により仏舎利が納入された際の願文(がんもん)、水晶舎利塔などがあります。不動明王像に対する各時代の人々の思いが、タイムカプセルのように詰まっているのです。
(県指定重要文化財 小田原市・宝金剛寺蔵)
・納入品は像とともに、12月3日まで鎌倉国宝館の特別展で公開中
[鎌倉国宝館]
市民は、鎌倉歴史文化交流館・鎌倉国宝館・鏑木清方記念美術館・川喜多映画記念館(映画鑑賞料金は除く)の観覧料などが無料です。身分証の提示を。
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