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丸岡藩誕生400年記念特集(1)

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福井県坂井市

■400年前にタイムトリップ
今年は、丸岡藩が誕生して400年の記念すべき年。市内では、10月12日(土)、13日(日)に『出張!お城EXPO in坂井・丸岡城』をはじめとした、丸岡藩に関連するさまざまなイベントが開かれます。
丸岡藩は、寛永元年(1624)に、丸岡城主だった本多成重(ほんだなりしげ)が、幕府から独立した大名として認められたことで誕生しました。丸岡藩があったからこそ、坂井市の歴史や風景があります。意外と知らないけれど、興味深いことがたくさんの丸岡藩を、お楽しみください。

◆もしも……。丸岡藩が誕生しなかったら!!
丸岡藩が誕生しなかったら、私たちのまちは一体どうなっていただろうか?そんな、ちょっとユニークな視点から丸岡藩が誕生した意義を紐解いてみませんか。歴史の「もしも」を想像しながら、今の丸岡の素晴らしさを再発見できるはずです。

◇丸岡城天守がなかった!?
丸岡藩の藩主の居城として使われていた丸岡城。藩主がいたからこそ、天守は藩のシンボルとして、時代を超えて、維持管理され、後世に受け継がれてきたのです。地域の誇りである天守が現存しているおかげで、観光客が増え、お城にまつわるイベントが行われています。丸岡城天守がなければ、街から見える景色が寂しいものになっていたかもしれません。

◇日向神楽が受け継がれなかった!?
毎年9月に長畝(のうね)の八幡(はちまん)神社で奉納されている神楽「日向神楽」。丸岡藩主を務めた有馬清純(ありまきよすみ)が、かつて治めていた延岡から、神楽を舞う楽がく人にんを丸岡に連れて来たことで、日向神楽が伝わりました。丸岡藩が誕生しなかったら、藩主もおらず、有馬家が丸岡に来ることはなく、日向神楽が伝わることもなかったでしょう。丸岡藩の歴史があり、長畝の有志が受け継いできたからこそ、県指定無形民俗文化財となるほどの心震わせる伝統芸能が、今もなお見られるのです。

◇平章小学校がなかった!?
平章小学校は、裏表紙「さかい風土記」の今月のテーマ『平章館(へいしょうかん)』から名付けられた学校です。平章館を創立した丸岡藩主の有馬誉純(ありましげすみ)がいなければ、平章館が創立されることはなく、今も平章小学校という学校はなかったかもしれません。

◆400年前、とんでもないッ!丸岡藩の知られざるとっておきの裏話(エピソード)たち
丸岡藩には、今では考えられない驚きの出来事や特産品があります。意外に知らない丸岡藩に関するエピソードをどうぞ!

◇藩主もつらいよ!?江戸と丸岡の往復生活
藩主の義務の1つ『参勤交代(さんきんこうたい)』
江戸時代、藩主は家臣とともに、自分が治めた領地と、幕府の中心地であった江戸(東京)とを、1年おきに移り住まなければいけませんでした。丸岡藩主も丸岡から江戸に行き、1年を過ごし、次の年に丸岡に帰り、約1年後にまた江戸に行く、ということを繰り返していました。当時、丸岡と江戸の間はおよそ15日かかり、川が渡れないなどのトラブルで20日以上かかったこともありました。なお、江戸には全国から人が集まっていたので、藩主や藩士は他の地域の人たちとも交流ができました。

◇丸岡藩、危機一髪!
農民たちの叫び『安永(あんえい)の百姓一揆(ひゃくしょういっき)』
農民たちの熱い想いが刻まれた歴史があることをご存知でしょうか。江戸時代、生活に困った農民たちが団結し、安定した農業や生活を求めて、領主に対し起こした反抗運動を「百姓一揆」と言います。丸岡藩で起こった安永8年(1779)の一揆は、布久漏(ふくろ)神社(北横地)に集合した農民たちが、丸岡藩領の村々をまわりながら参加者を募り、滝谷(たきだに)(三国町)まで向かいました。当時の農政に関わっていた有力農民の家を次々と打ち壊し、藩に対し、農政に関する要求を突きつけました。一揆の首謀者は後に処罰されましたが、この出来事をきっかけに丸岡藩は政策を改めざるを得なかったのです。

◇隣の村の殿様が違う!?
坂井市域に広がっていた丸岡藩領
丸岡藩領の多くは、丸岡城下町やその周辺だけでなく、日本海沿岸の梶(かじ)、加賀国に接する牛ノ谷(うしのや)(あわら市)など、丸岡城から離れたところにも点在していました。特に三国湊に隣接する滝谷(たきだに)は、丸岡藩にとっても重要な場所で、藩領内の年貢米(ねんぐまい)が運ばれたり、藩主も度々視察などで訪れたりしていました。江戸時代、地方の多くは、さまざまな藩の領地が混在していましたが、現在の坂井市域を含めた坂井郡は、越前の中でも特にその傾向が強く、主に福井藩領、丸岡藩領、幕府領がジグソーパズルのように入り組んでいました。隣り合っている村でも、例えば北横地は福井藩領(一部丸岡藩領)、南横地は丸岡藩領、上兵庫は丸岡藩領、下兵庫は幕府領と、全く違う藩の領地であることも多かったのです。

◇幕府に献上された幻の名産品、知ってる?
『豊原素麺(とよはらそうめん)』と『鱈(たら)』
丸岡藩の名産品に、素麺と鱈があります。夏は素麺、冬は鱈を幕府へ献上していました。特に素麺は「豊原素麺」と呼ばれ、かつては、豊原寺で作られていたそう。その後、丸岡城下町で作られるようになりましたが、丸岡藩の消滅とともに、歴史から姿を消してしまいました…

◆丸岡藩の解明は実はまだまだこれから
丸岡城国宝化推進室 学芸員 角 明浩(かど あきひろ)
初代丸岡藩主の本多成重は、はじめ福井藩の家老として活躍し、丸岡藩誕生と同じ頃につくられた現存の丸岡城天守にも関わるキーパーソンです。本多家の後に藩主となった有馬家の中にも興味深い人物がいます。藩社会の中で生きた藩士や百姓たちも忘れることはできません。今はなき丸岡藩ですが、坂井市の歴史を紐解くうえで、その存在は欠かせないのです。福井地震でかつての城下町が大きく被災したこともあり、丸岡藩の資料は限られていますが、県内外に残された資料から、今回の記事で紹介しただけではないさまざまなことがわかります。
しかし解明されていないナゾはまだまだたくさんあります。誕生400年目の今年だけでなく、今後も丸岡藩に関する調査研究が進むことがのぞまれます。

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