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さかい風土記159 丸岡藩の名産品は何だった?

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福井県坂井市

■いまは幻の「豊原素麺(とよはらそうめん)」
素麺といえば夏の風物詩ですが、丸岡藩の名産だったのをご存知でしょうか。藩の庄屋(しょうや)を務めたある家の古文書には、幕府の役人から丸岡の名物について尋ねられたら、「豊原素麺」と「鱈(たら)」であり、幕府にも献上している、と答えるよう書かれています。藩の歴史書『国乗遺聞(こくじょういぶん)』にも、産物として豊原素麺が、豊原寺(とよはらじ)(丸岡城ができる前、東の山地に繁栄していた寺)の時から伝えられた、とあります。
そもそも豊原素麺は、江戸時代初め、寛永6年(1629)と7年、徳川家康(とくがわいえやす)の側近だった僧侶への贈答品として登場し(『本光国師日記(ほんこうこくしにっき)』)、正保2年(1645)刊行の俳諧に関する書物『毛吹草(けふきぐさ)』には、越前の名産のひとつに「丸岡素麺」(豊原素麺のことか)が挙げられています。元禄年間(1688~1704)に刊行された、明智光秀(あけちみつひで)を主人公とした物語『明智軍記(あけちぐんき)』にも、名物として豊原素麺が出てきます。物語における光秀の行動は脚色されたものですが、そこに登場するモノは、当時の人々の認識が反映されており、刊行時に豊原素麺が越前の名物として知られていたことがわかります。
なお、季節に応じた幕府への献上品として、丸岡藩有馬家からは暑中(しょちゅう)に素麺、寒中(かんちゅう)に鱈が献上されていました(『武鑑(ぶかん)』)。徳川将軍家や幕府の関係者も、丸岡産の素麺を食していたのです。他にも江戸時代に書かれた地誌や、幕末期、西本願寺の門主(もんしゅ)への贈答品にも、豊原素麺が見られます。
明治6年(1873)の『足羽県地理誌(あすわけんちりし)』には、丸岡の産物のひとつに素麺があり、豊原素麺と名づけられていたとありますが、それ以降は見られなくなります。
丸岡の前身である豊原の地名に由来し、贈答品として愛用された豊原素麺は、丸岡藩の消滅とともに歴史から姿を消しましたが、約250年の長い間、名産品として広く知られていたのです。

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