■01 ASUWA RIVER and HISTORY
足羽川とまちと歴史
福井のこれまでの歴史の中で、足羽川はどのような存在だったでしょう。
▽城下町の流通の要
明治ごろまでの足羽川は、福井のまちと日本海を結ぶ輸送路として、重要な役割を果たしていました。
福井のまちなかに、「浜町」(中央3丁目)、「御舟町」(照手3丁目)など、水辺に関係する古い地名が残っているのを不思議に感じたことはないでしょうか。
これは、江戸時代、足羽川の現在の幸橋から新明里橋の間付近に、「河戸(こうど)」と呼ばれた川港がいくつもあったことに由来します。
九十九橋の上流には「浜町河戸」、下流には「木町河戸」や「八幡町河戸」があり、福井城下への生活物資の搬入口でした。
材木を扱う問屋が集まっていた木町の河戸では、ニシンなどの北海の産物や醬油(しようゆ)などが荷揚げされたほか、貨物だけでなく、人を乗せた客舟も三国まで下っていたそうです。
さらに下流、現在の光陽1丁目付近には、福井藩の年貢米を貯蔵する約3000坪の米蔵「明里米蔵」がありました。「米蔵河戸」から出荷される「明里米」は、三国を経て、大坂などの米市場まで運ばれました。
また、現在の花月橋から新明里橋の間は、昭和7年に改修されるまで、今よりも大きく南に蛇行するルートを描いていました。小山谷(小山谷町)、笏谷(しやくだに)(加茂河原1丁目)の山裾に沿い、現在の丹巌洞の前を通って流れていました。
その一帯は笏谷石の採掘場で、丹巌洞近くの河戸には、石積舟が頻繁に出入りし、越前の特産物として笏谷石を全国へ送り出していました。
江戸時代は、全国的に舟運ネットワークが発達していた時代。足羽川を含む九頭竜川流域も、日本海航路の拠点だった三国湊(みなと)を通じて、京や大坂、江戸などとの広域流通に属し、経済、文化が大きく成長しました。城下町だった福井は、同時に港町でもあったのです。
▽町民たちの憩いの場
江戸時代の福井の足羽川周辺、とくに九十九橋付近は、市場や遊興が集まる繁華街でもありました。
当時の足羽川の水は清く澄んでいて、岸辺からは水中のアユ、ウグイ、コイなどの姿が見えたそうです。夜は屋形船が浮かび、辺りに三味線の音などが響いていたといわれています。
現在の木田橋付近から明里橋付近までの南岸には、約2kmにわたる一面の桃林が広がっていました。春には、足羽山の緑を背景に薄紅色が美しく、花見の名所としてにぎわったようです。九十九橋はまるで桃源郷への架け橋のようだったといいます。
また、夏には、当時盛んに行われていた盆踊りの会場として、浜町、勝見辺りの河原が使われました。大勢の人が集まり、夜店なども出て、半月以上にわたって連日盛り上がったそうです。
足羽川の河原は、町民たちの身近な憩いの場としても親しまれていました。
▽足羽川が育んだ福井
時代をさかのぼれば、安土桃山時代に柴田勝家が北庄に城を築いた背景の一つには、この地がもともと足羽川と北国街道、美濃街道とが交わる商業の中心地であったことが挙げられます。
さらに古く中世には、朝倉氏の一乗谷も、安波賀の市まで舟が上り、足羽川の舟運による交易で栄えた都市でした。
こうして歴史をたどると、福井のまちが、足羽川にずっと寄り添って発展してきたということが分かります。
▽河原が日常だったころ
明治44年に官設鉄道の北陸線三国支線が開通したことを契機に鉄道輸送が発達すると、しだいに河川舟運は衰退していきました。
それでも、大正、昭和の初めごろまでは、福井と三国の間を行き来する川舟が足羽川を行き来していたそうです。
川釣りをする人や、洗い場で洗濯をする人の姿が日常的に見られ、近所の子どもたちにとっては格好の水遊び場でした。夏休みになると、河原に脱衣場や監視のためのやぐらが設けられたこともあったようです。
空襲と震災からの復興を記念して昭和29年に始まった「ふくいまつり」(現在の福井フェニックスまつり)では、花火大会や盆踊り、民踊などの会場として足羽川の河川敷が使われました。昭和30年代には、戦災や震災で犠牲になった人の慰霊のための「万燈流し」が行われたこともありました。
また、木田橋上流の右岸、足羽川と荒川が合流する付近には、福井市公開運動場がありました。通称「調練場」と呼ばれていたこの運動場では、小学校の連合運動会をはじめ福井市の行事や、サーカス、競馬など、さまざまな催しものが行われ、多くの人が集いました。
▽まちに残る共通の記憶
昭和の中頃まではその名残を残していた足羽川と福井のまちとの深い関わりも、高度経済成長を背景とする生活環境の変化などにより、現在では随分と希薄になってしまいました。
過去に戻ることはありえませんが、かつての川との密接な関係性を完全に忘れてしまうのは、何とも寂しい思いがします。
江戸時代に足羽川南岸にあった桃林は、明治33年に始まった足羽川の大改修工事の過程で姿を消しました。しかし、その後、桃林をしのんだ市民有志により、堤防に桜の木が植えられます。戦災と震災により一旦は消失しますが、昭和27年に再び植えられた桜並木が、現在では「日本さくら名所100選」に選定されるまでに育ち、毎年私たちの目を楽しませてくれています。
自治会名などに残る古い地名や、かつて足羽川が流れていた湾曲した道路など、まちには、いたるところに過去の福井市民の共通の記憶が残っています。
そうした歴史を参照することは、現在の福井に住む私たちを結びつけるシンボルになり、これからのまちづくりのヒントを与えてくれるかしれません。
●昭和の記憶
足羽公民館 館長 宮原義典さん
足羽地区に生まれ、昭和の前半に子ども時代を過ごした宮原義典さん。「三秀プール(照手3丁目にあった市営プール)ができるまで、子どもの水遊び場はもっぱら足羽川だった。冬に雪が積もれば、堤防でスキーやソリをして遊んだもの」。足羽川は、今よりもずっと身近だったと言います。「今年、幸橋の近くにできた『ヨリバ』はよい取り組みだと思う。失われてしまった足羽川と市民の近い関係を取り戻すきっかけになるのでは」と、昔を懐かしむように話してくれました。
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