■大宰府条坊と観世音寺門前
観世音寺は1300年以上続く、太宰府を代表する古刹です。かつては「府の大寺」と呼ばれ、大宰府管内の僧を統括する寺院として、遠く都にも知られていました。『源氏物語』第22帖玉鬘(たまかずら)には、玉鬘の乳母が大宰大弐(だざいのだいに)(大宰府行政の現地最高責任者)の観世音寺参詣が帝の行幸のようだったと話す場面(※)があり、物語ながら、観世音寺そして大宰府が大いに繁栄していた様子を伝えています。
観世音寺には、多くの文化財が伝えられていますが、奈良の東大寺にも、観世音寺が保安(ほあん)元年(1120)に東大寺の末寺となるにあたって進上した文書記録が伝えられていました。その中に、碁盤目に整然と区画された街・大宰府条坊の中の寺所有地を記した史料が複数あり、その一つに、観世音寺の寺域と条坊の位置関係を示すものがあります。
長徳(ちょうとく)2年(996)年閏(うるう)7月25日の史料は、観世音寺から要請を受けた大宰府が左郭4条7・8坊内の土地・面積1町3反を観世音寺に施入することを決め観世音寺に伝えた文書の記録です。その土地の西辺には「寺大門」があると記され、別の文書目録に「南大門」とあることから、南大門が大宰府条坊の左郭4条7坊にあったことがわかります。
一方、考古学の成果により、一辺90m四方の方眼上で条坊の遺構が検出されやすいことがわかってきました。これを地図に重ねると、観世音寺の南大門の位置は、確かに政庁から東へ7区画目(左郭7坊)であり、また7区画目を細かくみると、区画の東辺から約1/3西の位置の北辺に南大門があることがうかがえます。このことから、施入されたのは、左郭7坊のうち南大門の東側3反と8坊全体の1町だったと推測できます。
こうして、伝えられてきた文献記録の正しさと、考古学研究成果の確からしさが同時に証明され、大宰府条坊の解明と、古代大宰府の景観復元は大きく前進しました。
この長徳2年の文書は、大宰少弐(だざいのしょうに)(大宰府行政の責任者)で筑前守(ちくぜんのかみ)(筑前国の長官)を兼任する藤原朝臣(ふじわらのあそん)(朝臣は姓(かばね))という人物が発給しています。その名はわかりませんが、来年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公で『源氏物語』の作者・紫式部(むらさきしきぶ)の夫の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)は、正暦元年(990)に筑前守として赴任し、同3年(992)頃には大宰少弐も兼ねています。その数年後ですので、これは宣孝本人、もしくは次の赴任者が発給したものと考えられます。冒頭で述べた源氏物語の場面は、南大門前を通る華やかな参詣行列が当時実際に行われていて、宣孝を介して紫式部に伝わったのかもしれません。
施入された土地の一部は現在、観世音寺前のトイレ・多目的広場として利用してもらっていますが、歴史においても研究史においても重要な場所であることを紹介しました。
※大弐の妻の参詣との解釈もあります。
文化財課 井上 信正(いのうえ のぶまさ)
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