■中川家文書「横岳遺跡展観図録(よこだけいせきてんかんずろく)」
横岳山(おうがくさん)崇福寺といえば福岡市博多区にあり、福岡藩主黒田家の菩提寺として有名ですが、もともとは山号の通り、太宰府の横岳(よこだけ)に開かれた臨済宗の寺院でした。禅宗文化の中心的役割を担い、大いに発展しましたが、天正14(1586)年に起こった岩屋城攻めで建物のほとんどを焼失します。その後崇福寺は、黒田長政によって博多の地に再建され、横岳の旧跡は「いと閑寂なる境区」(貝原益軒『筑前国続風土記』)として、ひっそりとその存在を保ってきました。しかし明治に入り、廃仏毀釈(あお)の煽りを受けて崇福寺は廃寺となり、横岳の旧跡も「故ありて他の所有に帰し開山の墳墓さへ荊棘(けいきょく)の中に埋もれたり」(「福岡日日新聞」)と荒廃の一途をたどります。明治28年(1895)崇福寺に復興の動きがあり、横岳でも若松の資産家杉山松太郎が私財を投じ、地元では吉嗣拝山らも奔走して、旧跡地を買い戻し、崇福寺へ寄進したのでした。明治29年12月5日、崇福寺は横岳の旧跡地で「遺跡復帰式」を挙行します。記録では、僧侶数十名による読経が行われるなど、盛大な式だったようです。式の後は、拝山らが発起人となり、威徳寺(現・光明禅寺)で、崇福寺にまつわる古書画の展観会が開催されました。茶席や酒肴の振舞いなども行われ、こちらも盛会だったようです。
公文書館所蔵中川家文書の「横岳遺跡展観図録」はこの展観会の図録です。萱島秀山(かやしましゅうざん)の題字、藤瀬冠邨(ふじせかんそん)模写の大応国師像、木村耕巌(こうがん)の横岳山略図、守田洞山(どうざん)・萱島秀山による茶席図、禅宗関係各位からの祝辞、吉嗣拝山も漢詩文や書を寄稿するなど、横岳遺跡をめぐる同好会の会誌のようでもあり、楽しくも見ごたえのある1冊です。図録を保存していたのは太宰府の医師中川兒(げい)太郎。彼の詩も「図録」に掲載されています。福岡医学校で学んだ明治の青年医師も、近世以来の医家の出らしく、幼少期から漢詩文の薫陶(くんとう)を受けていたのでしょう、堂々たる一首を献じています。
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太宰府市公文書館 荻野 寛美(おぎの ひろみ)
※「兒太郎」の「兒」は環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。
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