■大宰府政庁の北西で見つかった条坊跡(じょうぼうあと)―大宰府条坊跡第348次調査―
古代大宰府には、大宰府政庁を北辺として碁盤目のように整然と区画された街がありました。今回紹介するのは、古代の街の北西にあたる場所を調査して見つかった、古代に使用された道路です。
令和5年に観世音寺3丁目の学業院中学校のちょうど裏となる場所で、「大宰府条坊跡第348次調査」として発掘調査を行いました。調査では現在から1千600年前となる古墳時代の住居、奈良時代の道路、鎌倉時代の流路が見つかりました。
古代の街となる前には、古墳時代の住居が10棟ほど見つかっており、4世紀~6世紀ごろまでは、調査地を含む周辺に集落が広がり、生活空間であったことがわかりました。
その後7世紀~8世紀にかけて、古代大宰府の街の一部に組み込まれました。大宰府条坊と呼ばれている古代の街は、大宰府政庁から南に延びる朱雀大路を境に、東側を「左郭(さかく)」、右側を「右郭(うかく)」と呼ばれました。さらに、東西道路を「条路(じょうろ)」、南北道路を「坊路(ぼうろ)」と呼び、「〇条(じょう)〇坊(ぼう)」と表記した記録が残っています。今回の調査地は、右郭2条6坊と右郭2条7坊の境目にあたり、中央で右郭6坊路が見つかりました。この道路は、通行した場所を補修工事した痕跡である波板状凹凸と呼ばれる遺構が残っているほか、轍(わだち)の可能性がある細長い溝状の痕跡などが見つかっています。また、北側の丘陵地に向かって延びる道路は、北側で徐々に道幅が狭くなっていることがわかりました。
これまでの発掘調査では、政庁の南門前を通る東西道路(4条路)よりも北側で条坊道路が見つかった事例は、観世音寺周辺を除くとほとんどありませんでした。条坊北西部にも確かに条坊道路が敷設されていたことや、利用が奈良時代にあるなど、大宰府条坊を解明するうえで重要な発見となりました。
文化財課 福盛(ふくもり)雅久(がく)
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