■水城(みずき)1360年
温暖な気候で大陸にも近い、北部九州。2000年以上前から稲作や金属器生産などの先進文化を受入れ、その生産力によって繁栄したのが、九州最大の平野地帯である福岡平野と筑紫平野です。この2つの豊かな大平野をつなぐ、ボトルネックのように細長い、回廊のような地峡帯の中に、本市はあります。
ここは、両平野をむすぶ交通上の要衝です。ただ、土地がせまく平野の端にあるため、かつては中心的な場所ではありませんでした。
今から1360年前、この地峡帯が封鎖されました。現在の太宰府市・大野城市・春日市におよぶ約6kmにわたって、平野や小さな川筋の地形を遮断する関(遮断城)が築かれたのです。これが水城(みずき)です。
この直前、交流のあった百済国の救援のため、日本は朝鮮半島に派兵していました。しかし半島西部の白村江で中国の唐に敗れ、翌年の天智天皇3(664)年に、大陸からの侵攻への備えとして水城は築かれました。歴史書『日本書紀』には、筑紫に大堤(土塁)を築き水を貯えさせた、それゆえに「水城」と名付けたと記されています。
水城本堤の土塁は、長さが約1.2km。上下二段構造となっており、高さは最大約10m、幅は約80mと、当時の人々が感じた脅威が形になったかのように、巨大です。かつて、土塁の前面(博多側)には幅約60mの外濠があり、背面(太宰府側)で集めた水を土塁の下に埋設された木製の導水管(木樋)で外濠に貯める仕組みがありました。大野城市・春日市に築かれた水城(小水城)も、一部は本堤の半分ほどの規模で築かれています。
大陸の脅威を受け止める一方で、その築造には大陸由来の土木技術が使われました。地盤が軟らかい場所では、樹木の枝葉を下に敷くことで土塁を壊れにくくする「敷粗朶(しきそだ)」工法が用いられています。使われた樹木は現在も水城跡でみられるもので、初夏の若い枝葉があることから、1360年前のちょうど今の季節に、工事がはじまったと考えられます。
水城は、日本が本格的に東アジアの国々と向き合い、国づくりを進めるきっかけとなった時代の産物であり、本地域が歴史の表舞台に立つきっかけにもなりました。
水城の背面(太宰府側)では、南北の山上に大野城・基肄城(きいじょう)が築かれ、その後、小平野には古代都市が整備されました。そして、日本の軍事・外交・交易・文化の拠点となり、北は壱岐・対馬、南は奄美群島を含む南西諸島までを管轄する、「大宰府(だざいふ)」が置かれたのです。
こうして本地域一帯は、2つの豊かな平野を擁し、海を臨み、海外の国々を見据える一大中心地となりました。水城の出現は、太宰府1360年の歴史のはじまりといえます。
文化財課
井上 信正(いのうえ のぶまさ)
<この記事についてアンケートにご協力ください。>