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太宰府の文華~公文書館だより(122)~

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福岡県太宰府市

■古代山城(さんじょう)と大宰府(1)
私はこの欄で何回かにわたって、古代大宰府の軍事的機能を考えてみました。今回も引き続き、その一環として、古代山城をめぐる問題について考えてみましょう。
大宰府の軍事的機能を考えるうえで重要なのは、やはり白村江敗戦後の天智天皇3(664)年、壱岐・対馬・筑紫国などに設置された防(さきもり)と烽(とぶひ)、また同年、筑紫に築造された水城、そして翌年の大野城・椽城(きじょう)の築城でしょう。これらは『日本書紀』に記されており、大宰府は防人の配備、烽の運用および管理、また大野城・椽城、水城などの防衛施設の統轄といった軍事的機能を付与されたと考えられるのです。ここにみえる大野城・椽城は、これまで古代山城のなかでは、対馬の金田城(かねだじょう)、熊本の鞠智城(きくちじょう)、香川の屋嶋城(やしまじょう)、奈良・大阪の高安城(たかやすじょう)などとともに朝鮮式山城の名称で分類されてきました。一方で、瀬戸内地域から北部九州にかけては、いわゆる神籠石(こうごいし)系山城と呼ばれるものが分布しています。この神籠石系山城は、その性格(霊域説か、山城説か)をめぐって、明治時代に論争が起こりましたが、現在の研究段階では、朝鮮式山城と神籠石系山城とを合わせて古代山城と呼ぶことが、ようやく一般的になってきました。
さて、この天智朝には、那津(博多)から現在の政庁跡に大宰府が移転したものとも考えられており、この時に先に述べたような軍事的機能が付与されたことから、大宰府は軍政府として成立したと説かれることもあります。確かにそうした側面があることも一概に否定できませんが、その後における大宰府の軍事的機能の展開を考えてみると、この時付与された軍事的機能は、まさに白村江敗戦という国家存亡の危機ともいえる事態に即応するための緊急的、臨時的措置とみることもできるのではないかと思います。
それは令制にみえる大宰府が「那津官家(なのつのみやけ)」、筑紫大宰(つくしのだざい)、筑紫総領(つくしのそうりょう)など、さまざまなプロセスを踏みながら段階的に整えられていったと考えられるからであり、そのことを念頭において、天智朝における軍事的機能の付与を、一旦相対化してみることも重要ではないかと思うのです。そうしたことを踏まえたうえで、先にふれた古代山城のあり方を再検討してみる必要性もあるのではないかと考えています。

太宰府市公文書館
重松(しげまつ)敏彦(としひこ)

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