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太宰府の文華~公文書館だより(123)~

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福岡県太宰府市

■天野遠景(あまのとおかげ)の貴海島(きかいがしま)討伐

これまでバックナンバーで紹介した以外に、天野遠景は、源頼朝(みなもとのよりとも)の命令で太宰府に赴任していた間に、もう一つ重要な役目を果していました。それが今回取り上げる貴海島の討伐です。
貴海島は、史料では貴賀井島・鬼界島などとも記され、その現在地には諸説ありますが、近年は鹿児島県の硫黄島(いおうじま)(鹿児島郡三島村(みしまむら))とする見解が一般的です。硫黄島は薩摩(さつま)半島の先端から約40km南の海上に位置する小さな火山島で、硫黄を産出することで知られています。中世には、貴海島といえば日本の西の境界に位置する島と認識され、また罪人を島流しにする流刑(るけい)地でもありました。
文治(ぶんじ)3(1187)年9月、頼朝の命を受けて、その家臣である御家人(ごけにん)の宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)が九州に向かいました。この時、頼朝と敵対していた弟の源義経(みなもとのよしつね)に味方する者たちが、貴海島に潜伏しているとの疑いにより、これを討伐せよと頼朝から命令が出されたのです。信房は遠景と合流し、出兵の準備を進めます。
翌4(1188)年2月には、遠景からの書状が鎌倉の頼朝の元に届きます。これによると、遠景は家来を貴海島に送って現地を偵察させる一方で、九州の御家人らに出陣を催促して軍勢を集めていました。しかし、御家人たちの協力は思うように得られず、軍勢が集まらないので、あらためて頼朝から命令する文書を出してほしいと頼んでいます。
それから3カ月ほど経過した5月に、再び遠景からの連絡が頼朝の元に届きました。遠景らの軍勢が貴海島に渡り、敵と合戦をして降伏させたという報告で、とりわけ信房が活躍した旨が記されていました。このようにして貴海島討伐は完了しました。
戦いの詳しい内容は記録が残っておらず不明ですが、これにより鎌倉幕府の威令は当時の日本の西の果てまで及ぶようになりました。その後、頼朝は参加しなかった御家人たちから領地を没収し、これを信房のように功績のあった者に褒美として与えています。

太宰府市公文書館
大塚 俊司(おおつかしゅんじ)

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