■大鳥居氏(おおとりいし)の家督争いと菊池氏(きくちし)
室町・戦国時代を通して筑後国(ちくごのくに)(現・福岡県南部)に在住していた太宰府天満宮の現地トップ・留守職(るすしき)を務めた大鳥居氏は、太宰府が位置する筑前国(ちくぜんのくに)(現・福岡県北西部)と筑後国の両方で、国ごとの統治担当者・守護を中心とする武家と関わりを持っていました。今回は、筑後守護・菊池氏との関係をみていきます。
15世紀半ばの大鳥居氏と菊池氏の関係は、大鳥居氏の家督をめぐる抗争に菊池が介入する形で現れます。信善(しんぜん)・信顕(しんけん)・信堯(しんぎょう)の三兄弟によって争われた家督は、文安(ぶんあん)元(1444)年に信堯が継承することにいったん決定します。しかし、その後も信顕との間で、数年にわたって家督争いの火種がくすぶり続けました。
それから4年後の文安5(1448)年、信顕が家督争いの経緯を説明した際に、文安元年当時、「故上様」から裁定があったと述べています。この故上様(こうえさま)とは、菊池氏の当主であった菊池持朝(きくちもちとも)のことです。筑後守護を務めた菊池持朝は、同国水田荘(みずたのしょう)(現・筑後市水田)に大鳥居氏が在住していたことから、上位者として家督争いの収拾に乗り出したのでしょう。また、信堯の家督相続が決定した直後に作成された神仏に契約の履行を誓う文書・起請文(きしょうもん)には、菊池氏の本拠・肥後国(ひごのくに)(現・熊本県)の国内最上位の神社・一宮(いちのみや)であった阿蘇神社(あそじんじゃ)の名が、太宰府天満宮や筑後国一宮の高良大社(こうらたいしゃ)とともに記載されています。ここからも、菊池氏の密接な関与がうかがえます。
この当時、北部九州地域では戦乱が続き、筑前守護に任命された経歴のある大内氏(おおうちし)と少弐氏(しょうにし)は、筑前国における権力基盤が不安定で、争いを裁定できなかったと考えられます。そのために大鳥居氏は、自らが在住した筑後国の守護であった菊池氏の裁定を仰いだのです。肥後国と筑後国を権力基盤とし、本来は直接の関わりを持たない菊池氏が、天満宮領を通じて太宰府天満宮と関わりをもった例であるといえるでしょう。
元太宰府市公文書館
兒玉 良平(こだま りょうへい)
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