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ふるさと再発見 広川町郷土史研究会

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福岡県広川町

■学校と教育制度の変遷 その9
~青年学校の実態を垣間見る~

○「青年訓練所」と「実業補習学校」
前身となる「青年訓練所」と「実業補習学校」ですが、前者は郡部の町村では、「公民学校」(旧星野村)あるいは国民学校(旧中広川村)などと呼称した例もあります。後者には工業・農業・水産・商業・商船など多岐にわたる冠をつけた補習学校がありました。一番大きく普及発展したのは農業補習学校で、中広川村に農業補習学校があったことは、残っている教員辞令によって知ることができます。

○「青年学校」の実態
対象となる年齢は、16歳以上20歳までの男女でした。
普通科・尋常小学校卒業者。修業期間は2年。
本科・普通科修了者および高等小学校卒業者。修業期間は、男5年女3年。
研究科・本科卒業者またはこれに相当する教養ある者。修業期間は1年以上。
専修科・特別な事項の習得を希望する者。修業期間は定めなし。となっていました。
生徒は「教育勅語」の暗唱に始まり、銃後の奉仕と愛国貯金・武道の修練・生活の自粛など、率先しての実践が求められました。例えば生活自粛には、映画観覧や観劇など節減することも、その一つでした。
軍事教練は重要な科目で、各個教練・部隊教練・陣中勤務・軍事講話などの項目がありました。これに武道・体操が加わり、女子には裁縫も加わっていました。
登校(召集)は毎週日曜日で月に4回、最後の日曜日は全員登校。ただし、女子は最後の日曜日登校はなし。4月から9月は8時から17時、10月から3月は8時30分から16時となっていました。
『広川町史』編さんに係る調査過程で、体験者の談(だん)を聴取(ちょうしゅ)していますので紹介します。
自分は昭和17年4月から、終戦の年5月迄在籍した。小銃(三八銃)の分解や組立てなどは、暗闇(くらやみ)でもできるように厳しく鍛(きた)えられた。岡山飛行場の建設や、犬山(いぬやま)ダムの建設などへも出かけたことを憶(おぼ)えている…。

○政府の権限が大幅に拡大する
同15年4月からは、尋常小学校での国定教科書「小学国史(しょうがくこくし)」の使用が始まります。
翌16年3月3日、「国家総動員法」が改正されたことで、政府の権限が大幅に拡大され、教育分野もその例外ではありませんでした。

○尋常高等小学校は、国民学校と改称される
昭和16年(1941年)3月1日、「国民学校令」が公布され、4月1日から従前の尋常高等小学校は、国民学校と改称されました。

○広川町古墳資料館だより
古墳資料館では、12月10日(日)まで「銅矛里帰り展」を開催しています。
奈良国立博物館館長の井上洋一さんの研究で、江戸時代に藤田天神浦堤から出土したと考えられる有文銅矛1口(写真右(本紙参照))が、イタリアのジェノバ市立東洋美術館に所蔵されていることが明らかになりました。
広川町から出土した銅矛が、海を渡り数奇な運命をたどっていることは興味深い事実です。

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