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ふるさと再発見 広川町郷土史研究会

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福岡県広川町

■学校と教育制度の変遷 その10
~戦時下の学校のようす~

○太平洋戦争が始まる
昭和16年(1941年)12月8日、我が国は米英に対して宣戦布告(せんせんふこく)したことで、太平洋戦争が始まりました。戦局もこれまでに比べて大きく厳しいものとなり、世界大戦へと拡大することとなります。
そのような戦時下に、下広川国民学校が、同19年2月11日、福岡県から旌表校(せいひょうこう)の表彰を受けています。中広川尋常小学校が受彰(大正7年)の時とは違って、旌表旗はなく表彰状のみではありました。

○食糧増産のために、運動場も耕される事態に
同18年ごろになると我が国を取りまく戦況は悪化し、国民生活全般が逼迫(ひっぱく)してきます。
殊に食糧不足が顕著(けんちょ)となる中、学校の運動場も耕(たがや)され、食糧増産運動の一端を担うありさまでした。
上広川国民学校では、山(やま)の道場(どうじょう)(大字水原字中島谷)を開墾して、サツマイモなどを植えた(17年ごろか)といい、下広川国民学校でも、裏山を開墾し畑となり、記憶が定かではないものの大東亜園(だいとうあえん)と呼んでいたと、聞いたことがあります。後に山の運動場として整備されました。中広川国民学校でも、運動場がこの時期に耕されて畑となりました。

○戦争激化の状況下に、学童疎開(がくどうそかい)が始まる
同19年6月30日、「学童疎開促進要綱」が閣議(かくぎ)決定され、本土空襲や食糧不足などから子どもたちを守る施策(せさく)です。
京浜(けいひん)・阪神(はんしん)・北九州・名古屋地域(大都市や軍施設など集中している)の、国民学校初等科の3年生から6年生と、縁故疎開(えんこそかい)のできない児童は、強制的に集団疎開することとなったのです。1年生・2年生が含まれていないのは、親から離れて見知らぬ土地での共同生活は、困難であろうとの理由からです。
さらには高等科以上の児童は、学徒動員による労働力とされていたことで、疎開対象とはなりませんでした。
またこのころからです。空襲を避けるため、各学校では防空壕(ぼうくうごう)が掘られました。下広川国民学校の場合は、知徳城跡(ちとくじょうあと)の山にいくつも用意されたと、『同校創立百周年記念誌』は伝えます。
農作業の繁忙期(はんぼうき)に入ると、出征(しゅっせい)して担い手がいなくなった家などへは、作業の応援に駆(か)り出(だ)されるようになるのもこのころからです。そのような期間には、田植(たう)え休み・穀物収穫(こんの)休みなどで、学業が休みとなっていたことを想い出します。
『下広川小学校創立百周年記念誌』には、「空襲が激しくなると裏山に防空壕を掘り、児童を緊急避難させるやら、御真影(ごしんえい)を護(まも)って、壕(ごう)に駆(か)け込(こ)むなど、毎日の授業が全(まった)く落ち着かなかった」と、当時の校長の寄稿が載っています。

○広川町古墳資料館だより
十二支のなかで唯一、架空の生き物である「たつ」の年になりました。
水や海の神としてまつられ、長い体に四脚と角やひげをもつ龍のイメージが日本列島に伝わってきたのは、弥生時代後期(1~3世紀)と考えられており、農耕に関係する水神である龍の意味を理解し、土器に描いていたようです。
太古の昔から、大自然を支配する龍神を拝んでいたということでしょう。

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