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ふるさと再発見 広川町郷土史研究会

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福岡県広川町

■広川町にある巨樹・珍樹 その3
長延区の小字地名に塔ノ尾(とうのお)という場所があり、戦国時代に萩尾氏が拠所(きょしょ)とした所といいます。(「筑後秘鑑」)。
館所跡とされる場所には、豊臣秀吉の九州平定の後、上妻郡を拝領した筑紫広門(つくしひろかど)によって、初代長延村庄屋を命じられた、萩尾右近助(はぎおうこんのすけ)と妻の墓塔が残っています。
夫妻の墓を守るかのように、双幹(そうかん)のヤマモモの大樹が、枝を茂らせています。管見(かんけん)の限りでは町内随一のものと見ています。その規模は、
推定樹高 8・0メートル
幹周 2・2メートル
1・4メートル
を測ります。
ヤマモモといえば、筆者らが子どものころには、とっておきの自然の恵みでしたし、民家の庭先や里山にたくさんありました。
最近では実を採りに行くことなど、子どもたちですらほとんど見かけなくなりました。
山にあるからといっても土地の所有者はある訳で、時期になると誰かれとなく実を採りに来ることから、他人に採られないように、番をすることも珍しくない時代だったのも、なつかしい記憶です。
この場所を調査した当時から、大きなツタかずらが捲(ま)きついていましたので、3回ぐらいは捲きついたツタを切ったことがありますが、このところ長く訪れていませんので、どうなっているのかを心配しています。
ちなみに最初に述べた萩尾氏のことですが、そもそもは戦国期に、筑後地域における大友氏の権益を守るために、この地に派遣されて来た氏族(うじぞく)の1人で、長延村を拠点としました。
天正14年(1586年)8月のこと、北上して来た薩摩の島津の大軍に包囲された岩屋城(いわやじょう)(太宰府市)で、城主高橋紹運(たかはしじょううん)のもとで760人が壮絶(そうぜつ)な玉砕(ぎょくさい)を遂とげた際に、萩尾隣可(りんか)と嗣子大学(だいがく)の2人が、城主の側近くで討死しています。
出陣するに当って、次男の右近助は幼年の故に村に残った(「筑後秘鑑」)とあります。

■広川町古墳資料館だより
11月24日(日)、秋の弘化谷古墳一般公開(9:00~15:00)が行われます。今年は、子ども古墳ガイドが古墳の説明を行う予定です。古墳公園資料館では、小嶋篤さんによる石人山古墳講演会(2階会議室、13:30~)の開催や「石人山古墳顕彰(けんしょう)340周年」(1階展示室、12月15日(日)まで)も開催中と文化財の催事が盛りだくさんです。ぜひ、この機会にお越しください。

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