■学校と教育制度の変遷 その13
~緊急の対応策としての墨塗り教科書~
○文部省が︑教科書の部分削除を指示
俗に墨塗り教科書と称されるものですが、昭和20年9月20日付で文部省は、戦後処理の一環で、それまで使用されてきた国定教科書の、記述の部分削除について通達します。不適切な表記とされる個所を墨を塗ったり、あるいは切り取ったり上から貼りつけたりして、削除する処置を求めたものです。
もちろん戦後の極端な物資不足や、新規に印刷する余裕がなかったという、当時の時代背景のもとでの緊急対応だったと、いうことができるでしょう。
同10月11日マッカーサー元帥(連合国軍最高司令官)は、時の総理大臣幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)に対して、五大改革を指令します。その一つの柱が学校教育の民主化でした。
同12月31日には、GHQ(連合国最高司令部)と我が国の政府との間に、「修身・日本歴史及地理ノ学科課程停止ニ関スル覚書」が交わされます。
その理由はというと、
(前略)教科書中ニ抜ク可カラザル如クニ織込マレタル軍国主義的及ビ極端ナル国家主義的観念ヲ注入スルコトニ、日本政府ガ教育ヲ利用セル事実ニ鑑ミ云々
ということにありました。
その日本歴史(それまでは国史と呼んでいた)ですが、翌21年10月12日付で交わされた覚書(GHQと日本政府)で、日本歴史学科の再開が許可されることになります。
ところが再開に当たっては、次のような条件がつけられていました。
(前略)文部省によって出版認可されるところの、官公私立諸学校を含むすべての教育機関において、日本歴史学科の再開を許可する。ただしその学科においては、文部省によって編さんされ連合国最高司令部によって、承認された教科書のみが使用されねばならない云々
というものでした。同時に地理学科も再開が許可されたものの、修身科についてはついに許可されませんでした。
○教科書の有償から無償化へ
もともと教科書は有償でしたので、筆者らの小中学生時代には、八女郡内で使用される教科書は、ほぼ同一だったことから、親戚やつてを頼って譲り受けていたことを、思い出します。
教科書無償化を求める運動は、高知県のとある漁村から起こり、部落解放同盟の強力な運動もあって実現します。
昭和37年11月14日、臨時義務教育教科用図書無償制度調査会の答申を受けて、翌38年12月21日「教科書無償措置法」が、公布・施行となり、ここに無償化が実現することとなります。
○広川町古墳資料館だより
4月14日(日)、9時~15時に弘化谷古墳の一般公開が行われます。
古墳内部の見学室から直接見える石屋形(いしやがた)の内壁に、双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)・同心円文など特殊な文様が、濃い赤とうすい赤・緑(岩の地色)の色分けで描かれています。
春は壁面の文様が特によく見える時期なので、この機会にぜひ見学へお越しください。
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