地域で話題になっている人や団体、企業などを紹介するシリーズ。
第31弾は、秋月藩成立400年特別編として黒田長興を紹介。秋月博物館の佐々木館長の監修のもと、黒田長興の語り口調で紹介します。
Interview:秋月藩初代藩主黒田長興(ながおき)
1610年~1665年。父:黒田長政(ながまさ)と母:栄姫(えいひめ)(徳川家康の姪、のちに養女)の間に生まれる。初代の秋月藩主として、以降の藩主に大きな影響を与える。
■秋月藩の礎を築いた藩祖
私は、1610年に福岡城内で福岡藩主の黒田長政の三男として生まれました。1623年、私が14歳の時に父が亡くなり、遺言で、夜須郡、下座郡、嘉麻郡の内、55の村、5万石が分与され福岡藩の支藩として秋月藩を立藩しました。
翌年、秋月に入り、梅園(現在の秋月中学校)にあった杉本城を増改築して居城に。城下町の都市計画を行い、武家屋敷や町家の建築を推進させ、城下町づくりにも着手しました。
1625年、私は将軍に謁見するため江戸へ向かう際に、確執があった兄の黒田忠之(ただゆき)に妨害されました。これは、父の長政が生前、兄よりも私を福岡藩の後継と考えていたため、福岡藩を継いだ兄が、私を警戒してのことでした。このような福岡藩の動きに臆せず、私と筆頭家老の堀平右衛門(へいえもん)は、13人の家臣で福岡藩の警戒線を潜り抜け、江戸行きを強行。1626年、大御所徳川秀忠(ひでただ)公に謁見し、1634年には3代将軍徳川家光(いえみつ)公から秋月5万石の朱印状を賜りました。このことで、秋月藩は独立した支藩となり、独自性を保つことができました。
将軍謁見に成功しましたが、平右衛門の横行で次第に対立。1628年、平右衛門は秋月藩から出奔(しゅっぽん)しました。秋月藩に動揺が走りましたが、私は焦ることなく対処し、三家老体制にするなどして藩政を運営させました。
一方、独立支藩となったことで、幕府への参勤交代などが義務づけられ、江戸と秋月の二重生活は藩財政を逼迫(ひっぱく)させました。加えて、江戸城の改修工事や朝鮮通信使の接待役なども課せられました。そのような状況下でしたが、1637年の島原の乱では、約2000余の兵を率いて出陣し奮戦。その功績は幕府からも高く評価いただきました。私は幕府への御恩と奉公を忠実に行い、秋月藩に対する幕府からの信頼を確かなものにできるよう努めました。
秋月藩内では財政を豊かにするために、農民を保護し、農業を振興。また、主な事業として、女男石(めおといし)の護岸整備や荒川堰の治水工事、原地蔵(はらじぞう)(筑前町)の新田開発なども行いました。さらに、人や物の往来を盛んにするために新八丁越を切り開き、野町(のまち)(筑前町)に宿駅を創設するなどして秋月街道を整備しました。
1665年、私は56歳でこの世を去りました。秋月藩成立から幾多の困難に直面しましたが、247年続いた秋月藩の礎を築くことができたのではないかと考えます。
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