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歴史探訪 秋月藩成立から400年―。秋月藩と三名君(2)

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福岡県朝倉市

■筑前秋月藩第8代藩主
黒田長舒(ながのぶ)(1765~1807)
黒田長舒は、明和2年(1765)に、日向高鍋藩7代藩主秋月種茂の次男・秋月幸三郎として誕生しました。
天明4年(1784)、秋月藩7代藩主黒田長堅(ながかた)が後継ぎを定めないまま早世しました。秋月藩が断絶の危機を迎えたとき、母である春姫が、秋月藩4代藩主黒田長貞と正室・瑞耀院の娘であった縁から、天明5年(1785)、幸三郎は秋月藩8代藩主黒田長舒となりました。
長舒は父の秋月種茂や叔父の上杉治憲の改革を手本にし、「治国安民」を旗印にさまざまな事業に着手します。労働力増大と人命尊重の観点から子の間引きを禁止し、子育てが困難な家には養育米を支給しました。相撲や歌舞伎、花火など領民に娯楽の機会も提供しています。
天明4年(1784)、長堅の時代に開設された学問所稽古亭を稽古観として整備し発展させました。亀井南冥(なんめい)や小川晋斎(しんさい)を教師として招き、その後、南冥の高弟原晨平(しんぺい)(古処)を稽古観訓導とし、学問の奨励に尽力しました。
また、優秀な人材を見出し秋月に招きました。緒方春朔(しゅんさく)は藩医として勤めながら「種痘法」を確立し、医学の発展に寄与しました。画家の斎藤秋圃(しゅうほ)は秋月藩の御用絵師となり筑前国を代表する絵師となりました。「島原陣図屏風(戦闘図)」は
秋圃により描かれたといわれています。
そのほか、特産品開発製造を奨励しました。秋月名産の葛(くず)や川茸(かわたけ)は全国に出荷されました。楮(こうぞ)や櫨(はぜ)、桑の植栽を推奨し、和紙や木蝋(もくろう)、絹などを産業として位置付け、藩財政の健全化を図りました。一方で、秋月の城下町内を流れる野鳥川は度々氾濫し、架橋の費用は財政を圧迫しました。長舒は長崎警備時に見た石造の眼鏡橋を参考に、長崎から石工を呼び寄せ、石橋の建設を試みます。多額の費用と長期の工期を要した橋は文化7年(1810)に完成しました。この目鏡橋は、現在も秋月のシンボルとして城下町の入口にその姿をみせています。
長舒は秋月藩を活性化させようとさまざまな施策を実施しますが、目鏡橋の完成をはじめ、その成果を見ることなく43歳の若さでこの世を去りました。

■終わりに
秋月種茂、上杉鷹山、黒田長舒に共通していることは「国づくりは人づくりである」として、領民を大事にし、武士や農民にわけへだてなく教育の機会を創造したことです。同時に福祉を手厚くし、労働力の確保に努めています。その結果、特産品の振興や収穫量の上昇で、藩の地力が向上しました。この視点は現代に通じるものがあり、三名君の治世や姿勢に学ぶべきことは多いといえます。

※秋月家三名君とその関係図の詳細は本紙またはPDF版をご覧ください。

問合せ:市文化・生涯学習課
【電話】28-7341

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