■東蓮寺藩(のち直方藩)の歴史
第12回 直方藩廃藩の事情
▽直方藩の廃藩
直方藩第四代藩主の黒田長清公が1720年に逝去し、嗣子(しし)として直方藩第五代藩主となるべき一人息子の継高(つぐたか)公は前年に病弱であった福岡藩第五代藩主宣政(のぶまさ)公の隠居により、第六代藩主になっていたため後継者不在の直方藩は廃藩になり領地は福岡本藩に還付され藩士は福岡城下に移転した経緯は前回記載の通りです。
▽廃藩の事情
この廃藩については、幕府の大名家統制法令の存在と秋月藩と直方藩の法的位置づけの相違が影響していましたので「福岡県史・通史編二」の「直方藩の終焉」の記述に基づいて紹介します。
▽幕府の大名家統制法令
1716年の幕府令では次のように定められていました。
「内分分知の者の嫡子が本家の養子となった場合は、自分の家は養子相続を願い出ず、その身一代の後は分知は本家へ還付することとし、朱印分知の者の嫡子が本家の養子となった場合は、別に家を立てていることなので、養子相続の願いを認める」
「内分分知」とはあくまで本家の分家という位置づけで、「朱印分知」のように幕府から朱印状が出され独立した大名として公認された支藩とは異なります。
▽秋月藩と直方藩の位置づけの相違
秋月藩は独立性の強い「朱印分知の支藩」、直方藩は本家の一部としての「内分分知の支藩」という明確な相違点があります。
直方藩が福岡藩第四代藩主綱政公と第六代藩主継高公の二度にわたって本藩に後継者を送ったのも、こうした強い一体性があったことが認識されていたことによるものと考えられます。
▽直方藩主長清公の思い
長清公は当然こうした事情は承知の上で、逝去の前月に幕府に対して次のような伺書を提出しました。
「実子継高を本家に養子に出しており、そのほかに男子もなく、親類などにも相応の者がいないため、養子は願い出ないことにしたので、病死したときは、領知五万石は本家高の内を新田分知したものなので、本家に還付していただきたい」
福岡藩主継高公からも同様の伺書が提出され認められました。
長清公としては、直方藩五万石は廃藩となってしまうのは残念だが実子の継高公が本藩の当主となり、より大きな舞台で活躍する機会を与えられたのでそれはそれで満足だったのかもしれません。
文 榊 正澄
文化財に関する問合せ:文化・スポーツ推進課社会教育係
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