■直方の炭鉱の歴史
第2回 筑豊石炭鉱業組合と直方
◇筑豊炭田の夜明け
筑豊地区における「燃える石」の存在は室町時代から知られていましたが、江戸時代になると筑前国では福岡藩、豊前国では小倉藩が石炭の採掘・販売を統制していました。
しかし、幕藩体制が倒れた明治二年(1869年)に「鉱山開放令」が布告され、「誰でも石炭を掘ってよい」「誰でも石炭を売ってよい」ことになったため農村の庄屋・豪農・町の豪商などを始め、零細な業者までが各地に小規模炭坑を開きました。
◇新たな炭鉱統制の始まり
明治十年代に入ると福岡県下の石炭業界は転機を迎えます。『直方市史石炭鉱業編』の記述によると、
「政府や福岡県の行政指導の積極化と介入、民間業者の石炭鉱業近代化への意欲的な取組みによって一大転機を迎えた。(中略)
小坑が乱立し乱掘する状況で出炭量は幕末期と大差はなく、零細規模による生産の停滞と混乱が続いた。」
福岡県は石炭資源を保護するとともに炭坑業者を統制するため、明治十八年(1885年)に「石炭坑業組合準則」を定めました。
これに基づき、それまでに筑前国の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の各郡と豊前国の田川郡のそれぞれで結成されていた同業組合が、同年に大同団結して「筑前国豊前国石炭坑業組合」を発足させました。組合は若松に取締所を置くとともに、芦屋・直方に出張所を設置しました。
◇筑豊石炭鉱業組合の発足
同組合は後に「筑豊五郡坑業組合」と名称を変更し、明治二六年(1893年)には企救郡を加え「筑豊石炭鉱業組合」に改称しました。同時に、直接各炭鉱を基礎とする同業組合に改組され直方を支部としました。
この組合は日本全国の同業組合の中でも最古の歴史と伝統を有するもので、産業史において極めて重要な位置を占めています。
また筑前国豊前国を縮めて「筑豊」とした呼称も、この頃から使われたと言われており、その点でも重要です。
◇筑豊石炭鉱業組合が残した財産
筑豊石炭鉱業組合の長い歴史は次号以降で紹介しますが、直方にいくつもの財産を残していますのでここで紹介していきます。
▽直方市石炭記念館
石炭記念館の本館は「旧筑豊石炭鉱業組合直方会議所」として国指定・直方市指定の文化財です。写真は組合が撮影した竣工直後の会議所です。
▽筑豊鉱山学校
筑豊石炭鉱業組合が炭鉱技術者養成のために設立した私立学校で、戦後は福岡県立筑豊工業高校となり多数の卒業生を送り出しました。
▽組合が寄贈した炭鉱関係資料
石炭記念館に寄贈された資料以外に、筑豊鉱山学校が所蔵した資料(炭鉱写真を含む)が福岡県立の九州歴史資料館に移管されています。
文 榊 正澄
文化財に関する問合せ:文化・スポーツ推進課社会教育係
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