■直方の炭鉱の歴史
第5回 遠賀川改修工事と炭鉱
◇遠賀川洪水の歴史
遠賀川は彦山川・犬鳴川など多くの支流を有する大河ですが、流域の住民は江戸時代以前から洪水の被害に悩まされてきました。
◇洪水による炭鉱被害の救済措置
明治時代になると筑豊炭田の開発が進み、炭鉱は日本全国のエネルギー源を支える存在になりました。
洪水による炭鉱の被害は採掘(坑道の水没)や石炭輸送(川舟や鉄道の運行停止)など極めて甚大で、炭鉱経営は危機に瀕しました。
貝島太助・麻生太吉・安川敬一郎など筑豊石炭鉱業組合の主要炭鉱主たちは政府に強力に働きかけ、国の直轄事業として改修工事が施工されることになりました。
◇遠賀川改修記念碑
遠賀川改修記念碑は改修工事の完成を記念して大正六年(1917年)に建立されました。
碑は遠賀川水辺館の下流側にあり西側の側面には直方ロータリークラブが設置して直方市に寄贈した写真入りの説明板があり、次の通り記述されています。
『この記念碑は、明治三九年(1906年)から大正六年にかけて行われた、遠賀川流域の大改修工事の記念碑である。
遠賀川流域は古くから洪水が繰り返され、特に明治三八年(1905年)7月には351ミリの降雨により水位は7メートルを記録、鉄道軌道上の水位は植木・直方間で2.3メートル、直方駅構内で1.4メートルを測った。
このため、同年に鞍手郡が主唱して「遠賀川改修工事期成同盟会」を結成、翌三九年四月には改修工事4,395千円、十年間の継続事業として議決された。
明治三九年からの工事を第一期改修工事と呼ぶ。工事は流路の直線化や付替え、川幅の拡張、河口の浚しゅんせつ渫、堤外地(堤防の川側)の掘下げおよび堤防の強化がなされた。現場ではフランス製の「ドコービール」という小型機関車など今日の水準から見ても驚くほどの機械力が投入された。
この結果、改修工事は順調に進み、大正六年に一応の完工をみた。直方の市街地が北方に拡大したのは、この時以降である。』
◇補足説明
・総工費の五百万円は現在価格では約五百億円の巨額であった。
・近代的堤防の完成により洪水の被害が防止され、堤防上部の道路は現在の自動車時代にも貢献している。
・古町の北側一帯は江戸時代の直方惣郭図にある通り一面の低湿地で家並みは無かったが、工事で発生した排土が埋立てに使われて新興市街地が誕生した。
・区画整理により新しい地名が多数生まれたが、後に国鉄直方駅(明治四三年(1910年)現在地に移転)北側は「須崎町」、日の出橋(明治四五年(1912年)初代架橋)北側は「日吉町」に統合され旧町名は消えた。
文 榊 正澄
文化財に関する問合せ:文化・スポーツ推進課社会教育係
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