■直方の炭鉱の歴史
第7回 筑豊鉱山学校の歴史
◇筑豊石炭鉱業組合の事業
明治十八年(1885年)に発足し明治二六年(1893年)に改称した筑豊石炭鉱業組合は主な設立目的である筑豊炭鉱業界の利益確保、官公庁や石炭輸送業者等との交渉の他に、個別の炭鉱では対応が困難な教育研究施設の設立運営を行ってきました。
救護練習所や石炭坑爆発予防調査所(所在地は現在の多賀公園から後に筑豊鉱山学校の隣接地に移転)の他に、官立ではなく組合が直接経営する私立の学校として「筑豊鉱山学校」を設立しました。
◇筑豊鉱山学校の設立
日清戦争(明治二七年〜二八年)を契機とする出炭量の増大に伴い、採炭現場での中堅技術者の不足が大きな問題となり、鉱山学校設立の動きが始まったもののその後の不況によりいったん見送られ、大正六年(1917年)に設立が正式決定しました。
頓野村の近津神社の隣に用地を確保して校舎の建設を開始し大正八年(1919年)に開校して入学式を開催しました。
◇筑豊鉱山学校の教師陣と学科編成
初代校長には京都帝国大学採鉱学科教授の山田邦彦工学博士を破格の待遇で迎え、他の教員や実験器具も当時の最高レベルを確保しました。
貝島・麻生・安川など筑豊石炭鉱業組合幹部の炭鉱主達の心意気が感じられます。
生徒達が学ぶ学科としては、時代の要請に応じて本科・別科・普通科・高等科が設置され、それぞれに受験資格が定められました。
◇戦後の筑豊鉱山学校の歴史
昭和二一年(1946年)に「筑豊鉱山工業学校」と改称、二年後の学制改革により「筑豊鉱山高校」となりましたが、当時の運営母体であった九州石炭鉱業協会の経営悪化により学校経営が困難になり昭和二五年(1950年)に県立への移管が実現して「福岡県立筑豊鉱山高校」となりました。
その後、学科の改組や新設が行われて総合化が進み、昭和三六年(1961年)に「福岡県立筑豊工業高校」と改称しました。
県立実業系高校の再編成により、平成十七年(2005年)に宮若市の鞍手竜徳高等学校に統合され筑豊工業高校は閉校となり、筑豊鉱山学校以来の八六年の歴史に幕を閉じました。
閉校時の学科は、開発土木科(採鉱科→開発工学科→)・機械科(鉱山機械科→)・土木科・電気科でした。
併設された「直方石炭鉱業技術員要請所」、戦後に合併した「九州日満工業学校」(現在の直方市立直方第三中学校の土地にありました)を加えると大正時代の開校以来の卒業生の数は13500人におよび、多数の技術者を送り出して地域に大きな貢献を及ぼした学校でした。
跡地には平成二十年(2008年)に福岡県立筑豊高等学校が直方市植木から移転して現在に至っています。
文 榊 正澄
文化財に関する問合せ:文化・スポーツ推進課社会教育係
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