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みんなで人権(じんけん)を考える「つなぐ」TUNAGU II

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福岡県筑紫野市

■「TUNAGU II」とは
人と人、心と心をつなぐ、世界とつなぐ―人権尊重のまちづくりの一環として、さまざまな人権問題について市民の皆さんと共に考えます。

■泣(な)いて、泣(な)いた、講演会(こうえんかい)
そのだ ひさこ
産まれや国籍、人種など、人には自分で選べないことがある。
私は生れた時から戸籍上も現実的にも父は不在だった。母は、ボロボロになるまで土木作業や行商などをして私を育てた。物心つくころには、周囲からのいたぶりやさげすみへの復讐(ふくしゅう)と故郷からの脱出を願うようになり、それが大学進学の目的となった。高校、大学と奨学金とアルバイトで自活したが、そんな貧相で飢えた私が出会ったのが、被差別部落(むら)とそこで差別に抗(あらが)い、懸命に暮らしを紡いでいる人々だった。
むらで子どもたちに関わる中で、「おまえはほんとに大学を出たのか!?」とニッと笑いながらも厳しい“じいさま”から、20年近く怒られ続けた。“じいさま”とは元全国水平社書記局長、井元麟之(いもとりんし)さんである。当時の厳しい差別社会のなかで生き抜いてきた、誇り高く、知性にあふれた姿に私は自分の貧相さが身に染みてきた。それでも私の凍てついた故郷への拒否だけは、心奥深く残り続けた。
30代、私は教員になった。差別事件はいくつも起こり、私を含めて教育現場の同和教育の貧しさが身に染みる日々だった。子どもの心にストン!と届く言葉は無いかと悩みつづけた。そして、じいさまが亡くなって数年後、詩人でもないのに詩を書き始めた。
1800(寛政12)年、じいさまのむらに起こった事件、5人の若者が無実で殺された「寛政五人衆」の事件を絵本にすることへのチャレンジ。自分が一度も受けたことのない差別!書いても書いても、詩はできなかった。一冊の絵本を出すのにも次々に壁が迫り、10年後やっと絵本『いのちの花』はこの世に生まれ出た。
ある日、その絵本を読みたいという高校生の後輩がいると聞いて会いに行った。母校に、そして故郷に戻ったのは40年ぶりだった。その後、彼女は私の講演で、その絵本を朗読してくれた。私と同郷のむらの出身であり、放送部員でもあった彼女の声は会場中にしんしんと響き、私の心に染みとおった。聞きながら、なぜか、40年間、固く封印してきた故郷の出来事や景色が次々に浮んできて、涙があふれた。その後、私の講演がはじまった。少し話すと涙があふれ、何とか取りなおして話しているとまた、ポロポロと涙があふれた。
井本麟之さんやそのむらの厳しいながらも温かいまなざし、むらへの思いをのせた高校生の朗読が、故郷の“むら”との40年ぶりの出会い直しを始めさせてくれたのである。
もう、家も親もない故郷だが、今も部落差別を無くす営みをしんしんと続けている人々の温かい姿がある。

■語り継がれる理不尽さ
「寛政五人衆」は、1800(寛政12)年に福岡藩でおこった事件で、当時、芝居を見に行ったという無実の罪で、14〜20歳の5人の“むら”の若者が処刑されました。寺の過去帳に記録が残っており、地元では「寛政義民松原五人衆の墓」と刻まれた祈念碑が建立されています。その墓は、戦前戦後にわたって3回も作り直され、今でも供養が続けられています。
身分制度が存在していた時代、ぬれぎぬを着せられむらの若者の命が奪われた事件は、現在でもフィールドワークで訪れた人々に語り継がれたり、絵本を通して学習に活用されたりし、部落差別の理不尽さを今も訴え続けています。

問合せ:教育政策課

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