そのだ ひさこ
■「TUNAGU II」とは
人と人、心と心をつなぐ、世界とつなぐ―人権尊重のまちづくりの一環として、さまざまな人権問題について市民の皆さんと共に考えます。
■お祭(まつ)りとケガレ
春から夏にかけて、いたるところでお祭りがある。私はお祭りが大好きだ。昨年は田川の神幸祭に友人と出掛けた。11基の神輿(みこし)が次々と英彦山川に入り、水の中でガタル(神輿を揺らすこと)を勇壮に競いあい、多くの人でにぎわった。
何といっても身近な「博多山笠」には心躍るものがある。早朝4時55分の「ドーン」という太鼓の音とともに、ワァーッと次々に走り出す山笠の勇壮さを見に、眠らずに出かけたりした。このお祭りは鎌倉時代に承天寺という寺の住職が悪病退散のために祈祷水をまいて回ったことに始まるといわれ、ユネスコ世界文化遺産に認定されている。
厳かな京都の祇園祭は平安時代、全国的に疫病がはやったとき、その退散のために八坂神社から神輿を出したことが始まりといわれている。山車のでっかい絵を競う青森のねぶた祭も、平安時代初期に干ばつが続き、同時に恐ろしい眠り病に襲われ、多くの人々が亡くなったことから、眠り病の退散を願ってはじまったと言われている。
日本には古くから、「ケガレ」という考え方がある。3大ケガレは死、産、血とされてきた。産はいのちが産まれること、血は女性の生理のこと。
平安時代の記録には「人が死んだら30日の穢(けが)れ、人が産まれたら7日の穢れ」(『延喜式』)とか、室町時代には「生理中の女は神社に11日たってからしか参ってはいけない」(『服忌令』)などの決まりがあった。
最近まで、葬式のときにキヨメ塩をいただき、帰宅して体に振りかける慣習が残っていた。その後学習が進んできて、死体も女性も穢れてなどいないとなった。
この、「ケガレ」を「清める」という考え方や動作からさまざまな祭りが産まれている。能や漫才なども中世の時代に、この穢れをはらったり、穢れないように祈ったりした動作から生まれた芸能である。
この「ケガレ」という考え方は日本のお祭りや芸能のもとになった考え方であるが、他方では数百年の歴史のなかで、穢れたと「される人」をつくり出すもとにもなった。それが部落差別や女性差別をつくりだした底流にある。ある時代に突然、部落差別や女性差別が生まれたわけではない。
私はいつからか憲法14条を自然に暗記している。「すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分、または門地により、政治的、経済的または社会的関係において差別されない」。1946年にすべての差別は禁止されている。けれど、この実現は私たちすべての国民の意識や行動にかかっている。
■東京高等裁判所の判決
昨年6月末、同和地区の地名などをネット公開する行為に対して、「憲法13条や14条で保障されている幸福追求権や平等権(差別されない権利)の侵害にあたり許されない」と東京高等裁判所の裁判長から判決が出されました。
この判決は、部落差別は許されないことはもとより、さまざまな差別についても許されないことが憲法に明記されていることを改めて意識させることにつながりました。
憲法やさまざまな差別解消推進法の理念を実現するのは、私たち一人ひとりが人権問題に向き合い、「差別をしない、させない許さない」という態度や生き方を示すことに他ならないと思います。
問合せ:教育政策課
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