■第一四三回元寇(げんこう)と宇都宮通房(みちふさ)
今から七五〇年前、日本は二度に渡り外国の侵攻を受けました。元寇(文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役)です。侵攻したのは「元」という国で、当時東ヨーロッパから東アジアまでの広大な領域を支配し、中国大陸南側の南宋(なんそう)と交戦中でした。
元にとって日本は火薬の原料となる硫黄の産出国で、その硫黄(いおう)や木材、米などが敵対する南宋に輸出され、戦争継続に支障を来していました。そこで南宋の友好国、日本と同盟を結ぼうとしますが、鎌倉幕府は拒否。すでに元の属国となっていた高麗(こうらい)からの情報で日本も属国にされると判断したともいわれます。
鎌倉幕府は元の侵攻に備え、文永八年(一二七一)西国移住令を出し、西国に領地を持つ御家人(ごけにん)を京都・鎌倉から移住させ、九州の沿岸警備を強化しました。
豊前宇都宮氏は文治元年(一一八五)初代、信房(のぶふさ)が豊前国に所領を得て以来、戦国時代まで約四百年、築上町とみやこ町を拠点に活躍しました。三代目、信景(のぶかげ)までは関東や京都と豊前国を行き来する生活でしたが、四代目、通房が西国移住令により豊前国に完全移住したといわれます。
通房は文永十一年(一二七四)十月二十日(現在の十一月二十六日)に博多湾岸に上陸した元の兵士(蒙古(もうこ)兵)と戦うため出陣しました。八幡神の神徳を説いた縁起『八幡愚童訓(はちまんぐどうきん)』には、「馳(は)せ参る軍兵は大宰少弐(だざいのしょうに)、大友、紀伊(きい)一類…」と記され、この紀伊一類が宇都宮氏の惣領家「通房」とその配下の者たちのことです。通房はこの時活躍した主要人物の一人として豊前国上毛郡原井村、阿久対(安雲)村などの所領を新たに得ました。
また文永の役後、元の再来に備え、博多湾岸に石築地(いしついぢ)(元寇防塁)が築かれますが、通房たち豊前国の御家人たちも参加し、現在の福岡市西区今宿海岸の元寇防塁を築きました。
通房はこの元寇での活躍の後、鎌倉幕府の実権を握る北条得宗家(ほうじょうとくそうけ)との結びつきを強め、執権北条貞時(さだとき)が守護を務める肥後国の守護代や筑後国守護を務めたほか、鎮西談議所(だんぎしょ)(九州の訴訟審理機関)で少弐、大友に並ぶ四人の頭人(長官)の一人に任命されるなど、五代目頼房(よりふさ)、六代目冬綱(ふゆつな)に続く豊前宇都宮氏の最盛期を築き上げました。
※頼房の時代、みやこ町犀川木井馬場から築上町本庄に拠点を移し、菩提寺天徳寺を創建しました。冬綱は豊前国守護にも任命されています。
(文化財保護係馬場克幸)
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