文字サイズ
自治体の皆さまへ

ふるさと歴史発見

23/33

福岡県築上町

■第一四四回 校歌に見える原風景
各学校の校歌は日本人には身近で馴染みのある歌です。しかし学校が自ら固有の校歌を制定するのは、世界的には大変珍しいといわれます。
明治二十四年(一八九一)、学校儀式で唱歌を歌うことが定められ、同時に学校で歌う唱歌は文部省(現文部科学省)の認可を受けたものとされました。こうした流れを受けて明治二十九年には全国どこでも歌える「校歌」という曲名の唱歌が作られました。この頃から、独自の校歌を作り、文部省に認可申請をする学校が現れ始めました。このような独自の校歌には校訓や地域の山川、名所、旧跡が歌い込まれ、全国的には大正時代から昭和初期に増加する傾向にあります。
さて、築上町内には閉校になった学校も含め二十二曲の校歌が把握されています。その中で最古は明治四十四年(一九一一)に制定された八津田小学校の校歌で、現在も歌われています。
町内の校歌に歌われる「山」ですが最も多いのは「英彦山(ひこさん)」でした。二十二曲中六曲で、求菩提山(くぼてさん)は三曲でした。同じ築上郡にある求菩提山よりも田川郡の英彦山が多いのは意外でしたが、標高一、一九九メートルの英彦山は町内各所から望むことができる身近な山だったのでしょう。ちなみに川は九曲が城井川でした。
次に作詞者の中で多かったのが、島田芳文(しまだよしふみ)(一八九八―一九七三)の五曲です。島田は豊前市久路土出身の作詞家で、昭和六年(一九三一)に古賀政男作曲、藤山一郎歌唱で全国的に大ヒットした「丘を越えて」を作詞したことで知られます。戦後帰郷し、農家をしながら昭和二十九年(一九五四)に再度上京するまで近隣の校歌を作詞しました。
島田は生涯に百二十曲以上の校歌を作詞したといわれ、築上町の五曲は昭和二十四〜二十七年に作詞されています。
また高塚出身の池田富蔵(一九一一―一九九六)も三曲作詞しています。池田は平安・鎌倉時代の歌人研究者で、自身も和歌を詠み、綱敷天満宮所蔵の「浜の宮千句」を全国に紹介し、後に県文化財に指定される先鞭(せんべん)をつけました。
こうした先人が築き上げた校歌には、学校とその周囲を取り巻く環境が歌い込まれ、校歌を口ずさむと懐かしい故郷(ふるさと)の原風景が目に浮かぶようです。
(文化財保護係 馬場克幸)

※島田芳文作詞の現存する校歌は西角田小、椎田中、築上西高の三校、池田富蔵作詞の現存する校歌は下城井小のみ。ほかは閉校などにより現在は歌われていません。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU