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芦屋歴史紀行 その三百三十一

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福岡県芦屋町

■ミシンと洋服 温かさと思い出と(2)

◆洋装の歴史
昭和中期生まれの人の中には、学校から帰ってくると、明るい窓のある部屋で、お母さんがガタガタとミシンを踏んで洋裁をしていた、そんな思い出を持つ人も多いのではないでしょうか。しかし、洋服は当然ながら、わが国発祥ではありません。洋服はいつ頃から普及し始めたのでしょうか。

○明治期
軍服の制定や鹿鳴館(ろくめいかん)で夜会が行われるようになったことに伴い、洋装はまず上流社会にのみ普及したようです。

○大正期~昭和初期
男性の洋装化は比較的早く進み、子ども服も活動着として推奨されました。一方、一般の女性に洋装が普及し始めたのは大正後期からのようです。また、昭和に入ると国民服令の制定により、簡易的な洋服または和服の改良服が平服となりました。
女性の洋装化の大きな契機となったのは、大正12(1923)年に起こった関東大震災。和服を着用していた女性は裾(すそ)や袂(たもと)に動きをさまたげられて逃げ遅れ、その被害は甚大でした。

○太平洋戦争中
昭和15(1940)年に入ると、戦時の物資統制令下で国民の衣生活の合理化・簡素化が主目的となります。そして、厚生省と陸軍省の管理下にあった被服協会により国民服が創定され、法制化されました。ただし、着用が強制されたのではなく、太平洋戦争後半までは国民服を着ていない人が多いような状況でした。
なお、国民服と同様の主旨から女性の着用が推奨される服装として、婦人標準服が昭和16(1941)年から研究され、翌年4月に決定されました。しかし、あまり普及はせず、ほとんど着られませんでした。そのような中、全国組織の愛国婦人会は、「モンペ」を制服として採用します。モンペは消火・避難などの時、素早く動けるように推奨された防空着で、足首をしぼったズボンのような服です。ただ女性たちはモンペと言えども、服装の美しさを求めました。ある国防に関する記事では、モンペを「ズボンは東北地方のモンペを優美に改良したもの、これに短袴(たんこ)をつければちょっとした買い物などの外出用にもなります。モンペの上に上衣と頭巾をつければ、そのまま空襲下の防火防毒に活躍する女軍の姿となります」とうたっていました。
さらに戦局が悪化して空襲が始まると、女性たちは常にモンペを身につける生活になりました。当初はほとんど普及しませんでしたが、本土空襲が開始されてからは、女性のほとんどが日常着としてモンペを着用するようになりました。

(芦屋歴史の里)

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