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芦屋歴史紀行 その三百三十四

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福岡県芦屋町

■ミシンと洋服温かさと思い出と(5)

◇ミシン事始め
安政元(1854)年、アメリカのペリー提督が、第13代将軍徳川家定へ献上し、夫人の敬子(すみこ)(篤姫(あつひめ))が使用したミシンが、日本に初めて来たミシンのようです。民間では、ジョン万次郎が母親のために購入したのが、ミシン使用の初めとされています。
明治時代になると、軍服や貴婦人のドレスを製造するためにミシンが普及し始めました。ミシン普及の初期は海外製のミシン(特にシンガー社)が主流でしたが、徐々に国内生産が始まります。
大正時代に入ると、大正10(1921)年にパイン裁縫機械製作所(現、株式会社ジャノメ)がミシンの国産第1号機を製品化。上糸と下糸とで直線縫いをする「小型手廻しミシン」の量産が始まりました。しかし、その当時の国産ミシンの品質は決して良いものとは言えませんでした。
昭和時代に入ると、より品質の高いミシンの製造を目指して、昭和3(1928)年にブラザー工業創業者の安井兄弟によって、「昭三式ミシン」が販売されます。麦わら帽子の縫製用昭三式ミシンは、海外製ミシンに負けない耐久性を持ち、利用者から高い評価を得ました。

◇戦後に高まるミシン需要
家庭用ミシンが徐々に普及する中、第二次世界大戦の開始とともに家庭用ミシンの製造は禁止され、軍用ミシンのみが製造されるようになりました。しかし、終戦を迎えると、機能的な洋服を手作りする人や洋裁を仕事にしたい人が増加。それとともに、ミシンの需要が増大します。昭和22(1947)年には「ミシン製造会」が発足され、国産家庭用ミシンの規格寸法が初めて統一されました。規格に基づいた国産家庭用ミシン「家庭用HA‐1型」が、昭和23(1948)年に製造されました。
その後、国産ミシンは海外へ輸出されるようになり、1950年代には、国産ミシンの輸出割合は50%を超えるまでになりました。
1960年代までは足踏み式ミシンが主流でしたが、昭和39(1964)年の東京オリンピック開催を記念して、ジャノメが完全自動機構を備えたミシンを発売。重量も従来の半分の軽さになり、好評となりました。1970年代に入ると、ミシンを嫁入り道具として持つ人も多くなり、婚姻件数とミシンの生産台数はほぼ同じだったといわれるほどでした。
昭和54(1979)年には日本初のコンピュータミシンが登場し、針の動きやさまざまな模様縫いがコンピュータ制御によって可能に。現在では、「自動糸調子ミシン」や「刺繍機能付きミシン」などの高機能ミシンが登場し、趣味や販売用の作品づくりなど、家庭で幅広い用途に使用されています。

(芦屋歴史の里)

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